*奇門遁甲の十干の意味合いの考察


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※ブログ:With the I Cing より転載


奇門遁甲の十干の意味合いの考察

2012-04-21 20:31:00 | 奇門遁甲

まずは、大枠的な理解を育むところからと思い、十干剋応の一つ一つの解釈を書く前に、まずは十干の基本的な意味合いを考えてみました。

奇門遁甲における十干剋応の構造というのは、干そのものの意味合いだけでなく、状態変化としての段階的な傾向を併せ持っています。

これはエントロピーの増大のように、甲が状態変化すると乙に、乙が状態変化すると丙に・・・という風に徐々に変わっていくもので、理論的には甲から癸に下るにつれて状態が悪化していきます。それはあたかも、精神が消耗、疲弊していく様にも似ています。つまり甲が最も健全かつ理想的な状態で、壬や癸になる頃には現実の状況や心が崩壊寸前の状態になっていくことを示しています。それゆえに、十干剋応では後半の干の吉位が少なくなっている、と考えることができるのです。

とはいえ、この段階的な状態変化だけが意味の基調にあるわけではなく、そこには十干全体として相互補完する円環構造も備えています。それは、ちょうど0〜9の各数字が等しい価値を持つのと同じように、干のランク(優劣)を云々するようなことはありません。個々の特性が尊重され、互いの関係性によって成り立つという全円的作用です。

そして、この両方の構造が立体的に組み合わさった「螺旋」的な働きこそが、十干剋応の関係性だと僕は考えています。つまり、それぞれの干の意味が相補性を保ちながら、同時に段階的な状態を示している、というもの。具体的には、天盤(上盤)が段階的な性質を示し、地盤(下盤)が相補性を示しているように思えます。

あらゆる現象は、各個人の内面、すなわち意識・感情・思考などと呼ばれるものに端を発し、その色合いの違いによって現象のユニークさや独自性がもたらされていると考えられますが、そこでのポジティブさとネガティブさの程度が天盤に反映され、同時に個々の積み上げてきた経験に基づく関係性が合わさって固有の状況を作り出していくのだと考えています。

また、螺旋構造ということを考えると、DNA螺旋のように本人を構成する諸要因として別の深い意味合いもあるのかもしれません。そうしたことを踏まえて考えてみるのも面白そうですね。


※「十干配合に対する語録集」では数字で表記していますが、それぞれは十干の配合に対応しています。
奇門遁甲盤では天盤とか上盤と呼ばれる部分で、盤面上は外から内(外部的な影響)を示しますが、その実は、個々人の内面の反映です。しかし、難しい理屈はともかく、単純にはその時々の大まかなテーマとして考えても構わないと思います。


☆ 1(甲甲)〜10(甲癸)まで ☆


本人の核心的な要素、いわば原点となるような最も理想的な状態を目指し、潜在する意志・意思を解放して外部社会に顕現させたいと望む段階。自尊心と向上意欲が高く、自己啓発に心が向かう傾向があります。自助努力によって自分自身を救済する道、または自分に自信を持って創造性を発揮する道です。

心の奥底から湧き上がる直観や可能性に目覚めることで、限界と固定観念で閉じられた殻を打ち破っていければ、心が解き放たれて自己実現につながります。それはつまり自分に自信が持てるようになるのと同義です。しかし、本質的に自分は何を求めているのかを理解する必要があります。簡潔に言えば、いつも素直な自分をクリエイトするために、それを阻む心の壁(甲羅)に光を当てて取り払おうね、ということです。

一般に、本人が尊敬する人・気品のある人・人徳に溢れた人・地位の高い人を象徴するとされますが、単に上司や先生的な人・目上の大人との縁と考えてもいい気がします。そして、そうした人からの刺激――時に引き立てや恩恵にあやかったりもしますが、生意気な奴と思われないように自意識過剰には気をつけましょう。また、先述したように自分自身の人間性の向上に励む時と解してもどちらでもいいと思います。甲には光を当てることで対象となるもの(自分も含めて)を輝かせたり、暗部を照らし出して気が付くべきことを悟らせる働きがあると僕は見ています。

甲については別のところ(「奇門遁甲と意識と次元」)にも色々と書いたので、それらも参考にしていただけると幸いです。


☆ 11(乙甲)〜20(乙癸)まで ☆


内面的な恐れに対して自我が防衛機能を発揮し始め、心理的に安心できる状況を作ろうとする欲求が生まれる段階です。甲としての「自分自身から湧き上がる自信と創造性」が適当な場面で生かされなくなると、修正やサポートしてくれるような信頼できる関係や環境を求めるようになります。自分自身の安寧または家族や仲間内での聖域、及びテリトリーの確保。リラックスできる環境を維持するために調和的な雰囲気を求めますが、そのために排他性が芽生え、受け入れられないことに対しては拒絶する一面もあります。

手を携えるような横のつながりと言えばいいのか、市井の人間としての結束意識が強いので、人々との共感や心の交流などの相手を絡めた経験で自己認識を深める道とも表現できそうです。相手を必要とし、また必要とされる共依存の関係。守るものがあると俄然、強くなれます。精神的な受容力が発達する時なので、奉仕や献身のような他者を思いやって理解する能力を活かすと良いでしょう。

その一方で、自分(達)の感覚に依拠する性質もあり、ちょっと捻くれた面を持っていますから、あまり他人と比較して卑屈になるようなことは避けましょう。自分は自分、相手は相手として個性を尊重し、各自に与えられた役目を果たしていけばいいと考えれば、少しは気が楽になると思います。自分にも他者にも無理強いは禁物です。また、個人的な精神安定のために何かできることを見つけてもいいと思います。

ところで、認められずに精神的に沈んでいる時は、傍に寄り添って相談に乗ってくれたり痛みを和らげてくれる人がいると心強く感じるものですが、その役割を自分自身が担うことも時折やってきます。でも、心を通じ合わせるとか理解を示すというのは、自分にも相手と同じか類似した経験がないとなかなか分からないもの。だから、日々の営みの中で得られる体験の大小に関わらず、ただ記憶に頼るよりも、印象的なことは記録としても残して見たことや感じたことを整理しておくと、より滋味を増すようになるし、感情的にも思考的にもスッキリして、後で記憶の引き出しから取り出す時もスムーズになります。


☆ 21(丙甲)〜30(丙癸) ☆


表面性または社会的な体裁(ペルソナ)というのが基本スタンスで、一般的に高く評価されているものを求めたり顕示することで自分を認知してもらえるようにする段階です。乙における「内面の精神的安定(受容性)」を心の豊かさそのものに求めるのではなく、何か外的なものによって満たそうとします。例えば、外見・性格・職業や地位・言動・生活スタイル・衣食住・貧富(収入)・魅力的なものを持っているか等で判断し、また自分自身も判断されるという傾向が出てきます。華やかな面が強調される反面、個々の内面性が軽視されがちになることには注意が必要です。また、見栄を張っても空しいだけですから、そういうことはやめましょう。

もちろん、その人の置かれている状況によって内容の程度は異なりますが、利害関係だとか“持つ者と持たざる者”の差異に敏感になり、それに対して誇りだとか羞恥という感情が現れやすくなると言えると思います。社会に関わっている自分の姿を強く意識することで周りの人々や環境に対してウケの良いことをする一方、その見返りとしての称賛や理解、または直接的な報酬(金銭、権益、名声など)を得たいという秘めた意図を持つこともあるかもしれません。

しかしそれを否定的に捉える必要はありません。というのは、これは自らの技量に加えて時代の流れや相手の需要に応えるという優れた能力の発揮を意味するので、善良さと素直さに従って適切に活用すべく努めていさえすればよいからです。そして、そうした自己表現をすることで周囲に貢献できるだけでなく、余計な画策などせずとも自然と高い評判がもたらされてくることになります。

ところで、ある種の系列だった通俗的な価値観というものは、それがあまりに社会に浸透すると反動として異分子が芽吹いてくるものです。皆が熱中しているものに同意できず、「自分はこっちのほうがいい(こう考える)」と思う人が出てくる。つまり、平面から立体になるような新しい視点の導入とか価値の転換が起きて、別の基礎概念が作られていくわけです。この性質が次の丁の段階となります。


☆ 31(丁甲)〜40(丁癸) ☆


先の丙では「一般的に価値があるものを求める」というメジャー性を示していましたが、陰陽反転した丁ではマイナー性(マイノリティ、インディ)を示していると考えられます。普遍化によって飽和してしまい、もはや特別な価値を見出せなくなった対象を求めるのではなく、もっと個人的な興味関心に合った価値基準を構築していく段階です。対外的に真っ当で普通(常識)とされる事柄に傾注することで自分自身も満たされる気持ちになれた丙とは異なり、丁では変則的とも言えるような独自路線を貫くことで、新たな価値の創出や発見を求め始めるのです。

ありきたりなアプローチではないため世間的には異端になりやすいのですが、それゆえにバイパスを通るように即効性を発揮したり、型にはまらない面白さが刺激となってマンネリ化した状況に変化をもたらすことができます。それは丙のような現実的なパワーによる働きかけというよりも、精神的・知的な表現形態を取りやすいのが特徴です。常識的に誰もができるようなことではつまらない、もっと個性的で、自分にしかできない特技や才能を活かすことで認めてもらいたいと望むわけです。

ただし、いわゆる普通……社会的正常値から逸脱する傾向があるので、昔から知情意とか心技体と呼ばれるものの整合性が崩れがちになります。これらのアンバランスさを適切に調整することができれば、ちょうど複雑な回路が整理されてプロセス(論理・物事の道筋)が明確になるように、目標や方針がハッキリしたり、状況に対して臨機応変になれたり、問題解決の糸口を思いつくことができたりします。

しかし逆に、この不均衡さに翻弄されてしまうと、イレギュラーさへの批判を受ける、理解を得られない、不信を被るといった影響で、自らも周囲への不信を抱くようになります。こうして対人関係に歪みや軋みが生じてくることになり、次の戊の段階が始まるのです。


◎インターバル: 甲尊・三奇から六儀へ


心理面もしくは状況の段階的な序列では、まず甲を本分に至るための扉を開ける鍵とみなします。そしてその鍵を使って本人にとって最高に価値あることを思うままに次々としていくことが理想です。しかし、そうは言っても常に理想的な形で自分を表現できるわけでもなく、次第に基礎が揺らいできます。

こうして次の乙という自分の分身――他者が意識されるようになり、互いの引き合いの中である意味妥協的に心の安寧を求めるようになります。同様にして、乙から丙、丙から丁・・・という風に下るにつれ、何かと考慮されるべき事柄が増えていき、いらぬ心配や面倒事に悩まされる経験をしなくてはならなくなります。

個々の特性が多くの領域で使われるようになると、社会は実に多様な価値観を持った人達の集まりとなります。そして六儀の初めである戊の段階から、世界は幾つにも枝分かれするように異なる言語や文化を形成していきます。こうして六儀すべてが別々の特徴ある世界観を備えることになり、同時にそれぞれの抱く観念に固着して他干のそれとは相容れなくなっていくのです。

つまり、この段階的過程は順次、大元である源泉(自分自身・大いなる一)から離れてゆくことなので、三奇辺りの内はまだしも、戊に入っていく頃には次第に心の闇や恐れといったネガティブさが比較的多くの割合を占めるようになってきます。これが後半の干の十干剋応に凶象が多い理由であり、それゆえに吉象の多い甲尊や三奇が貴ばれてきたのだと思います。(流派によっては甲を六儀で代用するので、主に三奇が重んじられた。)

とはいえ、六儀の干の剋応にも吉象は点在します。それには単に階層的な仕組みだけでなく、先にも書いたような相互関係も構造として備えているからです。単にランク付けされているだけならば、特に庚以下などは凶意の巣窟でしかなくなってしまいますが、実際にはそうなっていません。これは苦難を一つ抜ける時のような救いであり希望であると言えるかもしれません。


☆ 41(戊甲)〜50(戊癸) ☆


インターバルで書いたように、この戊の段階からそれまで大枠的に一つのまとまりを保っていた状態から分化して、個別の価値観とか考え方をもった人達の集まりがあちこちで形成されてきます。日常生活の範囲では幾つかの小さなグループができ始める、というようなことです。例えば趣味の会とか、各年代層のグループ、ある意見に賛成の人々と反対の人々といった具合です。つまり、差異あるいは多様性というものが基調となり、各個人は自分の馴染みやすい場を見つけて参入していく――それと同時に、各干が象徴する事柄に力が与えられて強さを増します。

もちろん、先の乙の段階からでも、自分と他者または我が家と別の家庭というような区分けや、横のつながりとして手を携えるような集団性はありますが、明確な差異として分化していくことまでは意味していません。戊以降の段階になって特に「類は友を呼ぶ」ということわざに示されるような似通った縁、似通った波長によって結びつき合う傾向が高まるのです。そして、互いの(グループ)間で交流をしようとすれば、そこには何らかの伝達手段が必要になります。つまり対人関係における意思疎通の方法です。例えばメールや電話のような通信、説得や交渉や議論、物品や金銭の交換、移送…といったことです。

また、丁の行き過ぎた段階で周囲の人との不信が生まれたことで、この戊では何をするにも「人との信頼・信用」が底流に流れます。「この人は信用できるのか」と考える。そして、もしこの信用がない状態で相手の持っている物を欲しがれば、それはきっと奪い取るような格好になるか、より優位な条件で買い取るようなことをするでしょう。しかしそれによって互いに防衛意識が強くなり、より個人の所有(端的に言ってエゴ)ということに固執しがちになっていきます。これが次の己の基本的性質になります。


☆ 51(己甲)〜60(己癸) ☆


漢字で己(おのれ)と書くように、個々人の限定された意識にこだわる段階です。元々は甲や乙における共感的な安心感を得て充足した状態であったわけですが、相手との利害のやり取りとか信用問題に翻弄されることで、次第次第に心が窮屈になってきます。ここでの自分と思っている意識は全円的なものではなく、何か不足感のある欲求不満な状態を示す片割れ的なものです。差異が明確化されることで嫉妬や羨望、憎しみ、嫌悪感というものも段々と芽生え出してきます。そしてその飢餓感や劣等感――満たされない思いを埋め合わせようとして、貪欲になったり悲嘆に暮れたりという状態を経験するようになります。

例えば、やけ食いすることでストレスを発散しようとしたり、実際に着もしない服を買いまくったり、家族を養うことよりも趣味に没頭したり…というような一人で行うこともあれば、自分の過不足を補完してくれそうな相手(異性)を見つけようと取っかえ引返えするようなこともあります。でも、そうした補完欲求はだいたい手前勝手なものになりがちで、相手の時間やエネルギーを奪う結果になったり、無駄に資源を消費するばかりで、結局は空しい気持ちを感じて溜息をつくことがほとんどです。というのは、そうした“何かの力を取り入れる”というやり方では自分自身に対する信用を損なうばかりで、原点である甲の“創造的な力”を忘れていくことに他ならないからです。

もちろん、エゴを満たすためではなく、本来の自分を取り戻すために有用な情報を得たり、周りの人達の手助けを受けることで改めて前向きな意欲を湧かせることができれば、それは立派な成功と言えます。要するに問題となるのは、他の人達も自分と同じように過不足に悩んでおり、同様に自分に対する自信や信頼を高めたり、創造力を発揮することを希求しているということを理解することです。ところが、それを無視して自分さえ良ければ相手を消耗させてもいいとか、人を使って自分を甘やかすことをしていると、それが原因で対立したり正面衝突するような事態を招くことになります。この延長上に、次の庚の世界観が築かれています。


☆ 61(庚甲)〜70(庚癸) ☆


先の己で「無い物ねだり」をして外側の物で内側の不足感を満たそうという思いが強くなると、今度は他人を侵害してでも求めるものを得ようと考え始めます。または、そんな自分自身が嫌になって自らを罰するようになる。これが庚の世界観を構成している基本性質です。結局のところ、これは本人自身や周りの人に対する愛が失われてしまった状態だと言えます。干合相手である乙には人々との共感という性質がありましたが、既にここに至るまでに自分と相手に対する信頼が損なわれているため、なかなか調和的な雰囲気というものは作れません。強く自分の権利だとか主張を打ち出していくため、それに対する反発も強まるし、無鉄砲さから痛手を負ったり精神的にショックを受けるようなことにもなりがちです。

最大の問題は、己でのエゴが肥大化したことで自分の苦しみを誰かのせいにしてしまうことです。特に生命の尊厳や人権を軽んじたり、短絡的な生存競争に走るようになると、互いに傷つけ合うばかりの関係になって「目には目を、歯には歯を」の主義が固まっていってしまいます。そしてそれが最大規模に拡大されると、侵略とか戦争というような大変ネガティブな結果を招きます。多くの場合、それは相手の持つ信念との衝突もしくは利権争いがトリガーになっていますが、なんにせよ人間としての理想的な状態からはかけ離れています。

では、なぜ自分や相手を傷つけるような行為をするようになるのでしょうか。一つに適切な感情統制ができておらず不安や恐怖に苛まれていることがあげられると思います。それから己での不足感――貧困などの苦しみからくる渇望や相手と反りの合わない不快感といったことが原因となって、やがて憎悪による争いや裏切りが起きてしまう。だから、こうしたことにならないようにするには、実生活の中で不満を感じないようにすることです。もっとポジティブに言えば、まず今あるもので満足して他に求める必要性をなくすこと、そして自らの創造性を信頼すれば自然と必要なものが得られると気が付くことです。

これは自分を愛し幸福にすることと同義だと言えます。一人静かに落ちついた雰囲気を楽しんでみましょう。攻撃的なイメージや言動にとらわれず、思いやりのような温かい気持ちを表現する時間を増やしましょう。そうした中で徐々に感情を沈めて、周りとの共生に意識を向けてみることで、自然と「ありがとう」と「ごめんなさい」のキーセンテンスが口をついてくるようになるでしょう。


☆ 71(辛甲)〜80(辛癸) ☆


オフェンス(攻撃)があればディフェンス(防御)があるように、庚における外部への尖った感情表現が陰陽反転して、辛の段階では内部に向かいます。不安を強引に抑え込んだり、受け入れられないことを否定したり、被害妄想的な思考で他者に責任を擦り付けたり、というようなことです。そうこうしている内に、自分を過度に護ろうとする気持ちが頑なな心の壁、時には城を構築してしまいます。簡単に攻め入られないように堀(バリア)を築き、油断ならないと考える他者が自分の心に土足で踏み込んで来ないように罠を張ったりもするかもしれません。

こういう状態になると、なかなか物事を前向きに捉えることが難しくなり、ストレス処理が追いつかなくなったり、鬱積した感情に苦しむ傾向が現れてきます。それと共に行動や考え方にも顕著な歪みが見られるようになり、特定の主義・思想に傾倒して何を判断するにもそれを基準にしてしまう頑迷さが出てくることも往々にしてあります。筋を通すという意味では成就していますが、その態度が鼻について周りを不快にしていることに本人が全く気が付いていない(気にかけていない)場合がよく見られます。

自分の不満を誰か(何か)にぶつけることで解消するという粗っぽいやり方が通じなくなると、俄然、心理的な葛藤は強まります。物に当たるなどで収まっていた感情も、次第に自分の肉体を傷めつけたり、社会に根本的な原因があるとして敵意を向けたりしないと気が済まなくなるようなケースさえあるかもしれません。しかし、ごく平凡な生活を送っている人がそのような状態になることは少ないので、あまり深刻に考える必要はないでしょう。ただ、覚えておくべきことは、鬱憤を適切に晴らす方法は心得ておかなければならない、ということです。さもないと、次の壬や癸の段階では相手を打ち負かさないと満足できないような、ある種の病的な状態になってしまいかねません。

一方、例えば合気道や太極拳のような武道・武術だとか精神修養の簡単な瞑想法や考え方などを学ぶことで、イライラや心の不協和音を鎮静化させたり、より建設的な方向に変容させることが可能です。特に、誰かに支配されているみたいな強迫観念に苛まれているのならば、なおさら憎しみや恐れの感情で心を一杯にするよりも、こうした心の訓練法を身につけて気持ちの転換が出来るようになったほうが、ずっと良い結果をもたらします。最大限に相手の尊厳を認めることと等しいレベルで、自分自身の尊さにも気が付くことが大切です。


☆ 81(壬甲)〜90(壬癸) ☆


何かを心配したり恐れるあまり自分の城を築いて鉄壁の守りを実現しようとしても、ちょっとした心の弱さや外的な揺さぶりによって、いとも容易く崩れてしまうものです。攻めと守りはイタチごっこのようなものでキリがありません。誰かが「憎しみは憎しみでは終わらない」との言葉を残していますが、その通りです。矛盾のことわざを考えてもいいですが、どちらが強いかを競う時、その結果は4つあり、勝ち、負け、相打ち(引き分け)、そして相抜けです。相抜けとは実力が拮抗しており互いに攻めることも守ることもできずにそのまま素通りしてしまうことだそうですが、その場合はどちらも傷つかずに済みます。

先の辛の段階で被害妄想的な感情を溜め込むと、次第に現実との接点を失いがちになります。そして現実逃避に走ってしまう人もいれば、生きる活力を失くして呆然自失的な状態になってしまう人もいます。また、無思慮のまま暴走して正常さを疑われるとか、状態が酷ければ自他の見境なく傷害行為に出るようなケースも、ごく稀ですがないことはないです。辛の時には、頑固に主張して相反する意見をシャットアウトしてきましたが、それが行き過ぎると、壬では勢い相手を否定してケンカ腰にもなってしまうのです。

ここで大切なことは、家族や友達・同僚といった自分の生活圏内にいる人達との相補性(恩恵を与え合っていること)に気がつくことです。特に、自分よりも弱い立場にある人(子供や年配者のような年齢的・身体的に開きがある人)、言い換えれば、自分が優位に立てるような人々に対してそのことを誇示するのではなく、ただ思いやりをもって接することができるかということが問われています。同様に、動物や自然環境に対しても親愛と感謝をもって関われるかどうか、つまり、相手を征服することではなく、どう理解し合うかということがテーマなのです。

パッと見では互いに恩恵や学びをもたらしているとは思えなくても、後でそれと分かることも多いので、短絡的に判断するよりは少し保留にしておこうと考えて、自然と理解できる日が来るのを寛大に待つのもありです。また、誰もが自分の夢を大事に思うように、他の人の夢も素直に応援してあげられるだけのハートフルさを表現すれば、ポジティブに壬の意義を使ったことになります。同様に、いい意味でのライバル関係が築ければ、互いに切磋琢磨して成長するという使い方もできるだろうと思います。その場合は、冒頭の矛盾の話のところで書いたことに、もう一つの解を付け加えることになるでしょう。


☆ 91(癸甲)〜100(癸癸) ☆


ウロボロスの蛇のように、十干の初めである甲と癸にはつながりがあります。それはどちらも人生の核に関係するということです。甲の場合は創造力の湧出口としての原点を示し、この特性によって自分がイメージした自分を生きることになります。一方の癸では、自分の根源的な部分へと沈みこんでいく、その深淵を示しています。そして癸の陰水というネガティブさが浄化(濾過)されたら、再び甲という原点に流れ込んでいくのです。つまり、自分を取り戻すという意味での原点回帰。

先の壬では、陽水としての奔流に呑まれて粗っぽい出方をしますが、癸の段階では陰鬱的な出方というか思い詰めた様子を示す傾向があります。そのために究極の選択だとか人生のどん底から這い上がるみたいな極端な状況で癸が登場する率が高いようです。この時、過度にネガティブな感情が強いと、自暴自棄になったり、心身を病んだり、破壊衝動から自虐や報復のような行動が予測されますが、そこまで深刻なケースは現にそうした要因が既に内在しているのでない限り、ほとんど心配しなくても大丈夫です。

心理学的に人間における段階的な気質を考える時、壬と癸の段階はかなりの荒廃を意味するので、病理的な概念で一緒くたに語られることが多いのですが、東洋ではきちんと十に区分されているところは古人の明察のなせる業だと思います。それはともかく、先にも書いたように病理的または神経症的な問題を引き起こすようなことは一般的な生活をしている人にはまず起きないので、たとえ奇門遁甲でこれらの象意が出てきたとしても恐れ慄く必要はなく、少し気を引き締めるくらいの心づもりでいれば良いのです。

肝心なことは、実態のない恐れに恐れる理由はないという認識です。ネガティブな経験そのものは、そのことで疲れ果てて心を萎れさせてしまうのでなければ、いずれは良い学びだったという記憶に変ります。粋濁が混ざった社会の中で人生を送ることで経験の幅と深みが出ると考えれば、そこに無意味さはありません。絶対的な善悪だとか背理に心を奪われるのではなく、自分自身とその反映である全ての人々、そして世界の有様の中に神聖さを見つけてみましょう。それによって寛容さと許しの感情、そして親愛の気持ちが育くまれていくだろうと思います。


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