「易の三義」について
2009-09-12 22:45:58 | With the I Ching より転載。
地火明夷の解説の中で「易の三義」に触れた時、昔書いた文章を思い出したのでハードディスクを探して見つけてきました。
参考までに掲載しようと思います。
これは2003/08/29
(金)に書いたものです。今の考え方のベースが見て取れますが、現在とは部分的に考え方が異なってはいます。
(それについては後述します。少し混乱させてしまうかもしれませんが。)
なお、別の内容(カバラや占星術の話と絡ませていた)と混じっている部分を端折ったため唐突な面もありますが、気にしないでください。
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「易の三義」についての私見(原文そのまま)
(略)
例えば、「易に三義あり」といって、“易簡・変易・不易”の三つを挙げることがあります。易とはそもそもが変化という意味合いですから、この三つは“異化・日常・同化”と言い換えることができます。(あるいは、“分解・均衡・形成”と表現することもできます)
月の満ち欠けや季節の移り変わりに象徴されるように、変化とは本質的なものです。それは前後左右にバランスをとりながら律動的に進行していきます。生命とはリズムといっても良いくらいです。
平均とは両者の中間の位置ということで、それぞれの力の均衡によって成立しています。決して宙ぶらりんという意味ではありません。ちょうど運動会の綱引きのようなイメージで、力の拮抗したチーム同士が綱を引き合っているようなものです。見た目は静的ですが、その実は動的な力が働いています。そして、それを変易と言っています。
その均衡した平均的な力関係が崩れた時に、他の二つの状態に転移することになります。その一つが異化であり、易簡です。惑星に置き換えると、例えば天王星は地球や土星などとは異なり、上下に自転しています。イメージ的には、洗濯機の水流が逆回転したり、横回転が上下回転に変わったりするようなもので、それが大きな刺激となるわけです。
通常、易簡の説明は陰陽二気によって作られた法則(簡単で分かりやすい法則)とされるわけですが、ここでお話したように、実際には変化の方向性の一つの状態を指します。つまり簡とは、その含まれる意味として“ほぐす”とか“分解する”ということであり、日常の凝り固まって停滞化した状態を打破するエネルギーを象徴した言葉です。
だから、その一方の不易というのも、単純に“変わらない”という意味ではなくて(というのは、常に物事は変化し移り行くのですからね)、変化の方向性の一つとして、それが固定化されたり、同化吸収するような性質があるということです。
例えば、異化作用の力によってグッと綱が引かれたら、それに負けまいとして自分たちの方に引き寄せようとするようなものです。それによって、どちらか極端に力が偏るのを防ぎ、均衡を保とうとします。
異文化交流なんかはまさにそうですが、日常と異なった環境で過ごす時、始めはカルチャーショックを経験しますが、「郷に入れば郷に従え」で、次第に慣れて(同化して)いきます。そういった状態を象徴的に語ったものが、異化と同化です。
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ここに見るように、6年前の自分は「易簡」⇔「変易」⇔「不易」という関係で考えていましたが、今は易簡を中立状態(自由に切り替えられるシフトレバー)と考えているので、「変易」⇔「易簡」⇔「不易」という風に捉えています。ただ、これは定義の問題なので、実は本意は変わってません。それは文中にある「異化」・「日常」・「同化」(分解・均衡・形成)という内容です。
様々な小さな変化がありながら閾値を外れない程度の通常の状態と、日常を逸脱するほどの異化作用(革新性)を受けた状態、そしてマンネリや意識的な固持(保守性)による同化作用の三つです。「易簡」でのシフトチェンジによって、どちらの状態へも変化する可能性がある(というか、人生の中で誰もが保守的になったり、先進的になったりする)。
先天八卦で言うと、震卦の奮動に対する艮の静止があり、そこに震卦には巽卦の伏入が、艮卦には兌卦の悦楽が契機および刺激になって逆の状態へと誘導します。これを根本的に陰陽の原理から支えるのが乾坤で、さらに陰陽を律動的に循環させる一種の潤滑油として働いているのが坎離という構図です。
まず基本として陰陽のエネルギーがあり、そこに意識体なり魂なり心なりが乗っかっているイメージ。ちょうど、でんでん太鼓を叩いているようなものかな(…違うか)。自然界のエネルギーである陰陽に対して、生命体に宿るもう一つのエネルギーが作用することで変化や律動という流れが生まれる。あるいは、どちらに動くか自ら選択する(意識的にしろ無意識的にしろ)。
繰り返しますが、ここでの三義の解釈は独特なものなので通説とは異なります。その辺を誤解しないように注意しながら、参考程度に考えて頂けたら幸いです。