節は内卦兌の沢(池・器に入った水など)の上に、さらに坎の水が滝のように流れ込む状況を示した卦です。コップに飲み物を注ぎ足しているような感じ。そこで、許容量を超えそうになっている状態に制限を設けて抑止しよう、というのがこの卦の意義です。(いくら入ると言っても、コップの淵一杯まで並々と注いでは飲む前に零れてしまうおそれがあります。だからこそ、通常は7〜8割程度の量にするわけですよね。それが下卦である兌の意味)。何らかの誘惑によって理性のリミッターが外れそうになるのを防ぐ。一線を越えないように警戒するという姿勢。その方法は人それぞれですが、例えば思慮分別・経験則・ポリシー・法律・科学知識・他者のアドバイス・何かの教え・戒律・規定(回数や資格などの条件)といったことをストッパーにする傾向があります。それらは他から見れば絶対的な基準ではないのですが、それに従う人間にとっては有効に働きます。
また、節を入れることは自分の現在地や今どんな流れに乗っているのかを把握することにも役立ちます。例えば、今こうして書いている文章の句読点も節としての役割を果たしています。長すぎても短すぎても読みにくいので、どこに入れるべきかを考えながら書く。他には音楽の休符、本のしおり、機械の安全弁、高速道路のパーキングエリア、道の駅、勤務(授業)時間と休憩時間を告げるチャイムなど。心身の酷使による疲労を防ぐ危機管理であると同時に、適度な休憩を入れることで精神のリフレッシュを計る目的もあります。緊張と弛緩のバランスを取ることは、始終集中し続けようと気負うよりも効率がいいのは誰もが認めることだと思います。また、以前にも書きましたが占星術のサインやハウス、暦の二十四節気も区切られることで思考上の分別が生まれ、個別の意味が付与されます。
綜卦は風水渙。渙は分散や発散という意味と、散らばったピースを一つにしようとする意味の両面性を有します。そして、これを意識的・自立的に活用できれば日々の生活にメリハリが生まれてきます。仕事や役割を分担し、スタッフが集中できる環境を作ることで総合的に仕事の質が向上したり、一人で重荷を背負わずに任せるべきところは任せることで、自分は重要な舵取りに専念するなどです。負荷が分散することで特定の人ばかりが辛い思いをしなくて済むため、他のメンバーとの調和性が高まる効果も期待できるし、システム全体が機能不全に陥るのを防ぐことにもなります。ただし、散漫にし過ぎると収拾がつかなくなってしまうので、そこに水沢節の働きが求められてきます。
裏卦は火山旅。これは自分探しの旅とも言えるし、色々な場所へ行き、色んな人に出会って人生観を調整する旅とも言えます。音楽でいう調律に近い概念です。楽器の弦を引っ張りすぎず緩めすぎず、ちょうどいい辺りで調節する。そのための加減を学ぶ放浪。人でも機械でも、いわゆる「遊び」がない状態というのは一般に窮屈で摩擦も高く、その効果と引き換えにリスクも大きいものです。ある程度の融通が利くことによって誤差や衝撃を吸収することができます。もし「遊び」をなくした状態で同じことを求めるならば、渙のように全体に荷重を分散させる技術を搭載しなくてはならないでしょう。ともかく、日々の生活の中で不協和音という不健全さが出てきてしまった時、旅では自分らしさを再発見しようとし、節では適度にセーブする術を学ぼうとします。
類似関係は沢風大過。大過と節は屯・晋から26番目で3巡目の8(8→17→26)です。偶数は陰としての内向性を示しますが、8の場合、濃縮ジュースのように圧縮によって内容の密度を高めるという性質があります。ご飯を握り込んでおにぎりを作るようなイメージ。あるいは8という数字の形を“雪だるま”と重ねてもいいかもしれません。グッと凝縮することで硬く強くする。それは何らかの素材に対して外的な操作を加えるということです。普段抱いている価値観や信念とか相手に対する期待などの思いを煮詰める作業。平常の状態に刺激を加えたり条件を課してみて、どう反応するか試験するような状況。自分と相手、または関係する世界との折り合いの中で、自分自身も同期的に変化していく様子を示しています。
大過では負荷が高まると柱が軋んできますが、そこで世界を支える巨人のようになるか、耐え切れずに放棄したり、押しつぶされてしまいます。一方の節ではリミットを越えて暴走しそうになると、それを食い止めようとしたり、逆に喜んで流れに乗ったりします。その現れ方は様々ですが、どちらの卦も周囲の強い働きかけに対して自分はどう判断し何を選択するか、また、自他の行動や周辺事情に対する注意力を発揮して、適切に事が運んでいるかをチェックする働きがあります。なお、節では公的な規則や自分ルールを持ち出して状況に対処しようとしますが、その集大成として今度は風沢中孚での心の操作法に関心が移ってきます。どうすれば人を感化させられるか、その手腕に習熟したいと思うでしょう。
補完関係は天水訟、その先のヴィジョンは地水師。訟は主張する、訴えるという意味です。本などで自力で調べることの難しい子供が、分からないことを逐一周りの人に訊ねる情景に似ています。相手の都合などお構いなく「あれは何?」とか「こっち来て!」と唐突に言ってきます。浮かんだ疑問を直ぐに知ってそうな人にぶつける。訟の場合は、まだ一対一として相手が限定される関係が多いので、厄介で面倒ですが対応は可能です。でも節の場合は、マニュアル的に制御しようとするために規格外の人には通用しません。つまり、節は個別の対応を訟から、訟は全体を取りまとめる手法を節から学ぶ必要があるわけです。そして、個性の強烈な人をセーブするには教科書的なやり方ではダメで、そこには挫折体験者や異端児、ひねくれ者をも包容できる師としての大きな度量・器(統制力や牽引力)が必要になります。
<爻意は後日、追加更新します。>