渙は個と全体とを考える卦です。一つにまとまっているものを解体したり、また一なる全体に戻したりという作業。一般に「散」の字を使って説明されることが多いです。離散、解散、分散といった具合です。他には、散布図を見て全体を分析・検討するような感じ。結束していればバラされたりバラしたくなるし、ジグソーパズルのようにピースがバラバラであれば心理的に完成させたくなる…。考察する対象の現状によって、分散するのか一体化していくのかが分かれます。難事に直面して苦しんでいる時に渙を得たら、誰かが手助けしてくれるケースが多いでしょうし、半面、上手くいっている時であれば、それが解体されるような憂いが起きやすいでしょう。矛盾しているようですが、これは“一つのまとまった状態と個別の状態との形質転換[transformation]”を示す卦の性質に由来するものです。
綜卦は水沢節。節は竹の節。人心をはじめ、物事や時間・空間を仕切ることを意味する卦です。内卦兌は楽に流れる気質があり、それを放っておくと外卦坎の悩み苦しみに陥ってしまうおそれがあります。だから、そうなる前に自制したり、何らかのルールで抑制して内的なバランスを計るという状態です。これとは対照的に、渙は内卦坎のドロッとした水(感情)の澱みを外卦巽の風(思考)が吹き散らすという構図なので、気分転換とか鬱憤晴らしのような形で健全さを保とうとする状態です。基本的に伸ばす必要のあるものは伸ばす、そうでない部分は枝の剪定のようにカットして、不要部分に流れるエネルギーをより強めたい部分に回します。両者に共通しているのは、生活全体を鑑みて、自分にとって重要な仕事とルーチン・ワーク化している作業とを選り分け、けじめをつけるという点でしょうか。
裏卦は雷火豊。豊かさを享受すること、そしてそれに甘えてしまうことの危険性を説く卦です。一言で言えば「栄枯盛衰」。一時の最盛期を謳歌し、やがては過去の栄光に未練を残しながら衰退してゆく運命を表わしています。例えば、20代30代で最強を競い合うような激しいスポーツ、各界のトップを目指して凌ぎを削り合う人達・組織などを象徴しています。その一方で、そうしたハードな環境に晒されて心身が悲鳴を上げたり、引退後に急激に衰えが進行してしまうケースもあります。境遇に恵まれることで優勢に立てる反面、本体としての自分自身の力の目算を誤る傾向が読めます。優れた道具や人材(サポート)に思い上がって、肝心の本人が怠け者にならないように気をつける必要があります。
豊が勝利や成功への一点突破を目指して、ある時期・ある場所に肉体的な力や精神を焦点化するのに対し(例えば大事な試合にベスト・コンディションで臨めるように調整する人など)、渙は長期間の耐久に応じられるように集中力や物資などを小分けにしたり(その配分を考えるという意味ではマラソンに似ている)、必要な材料や人材を拾い集めてバラけないように心を砕く、現実にとらえることのできる表面だけでなく、人の心理や物事の裏側を考慮して上手く立ち回る、といったことをします。それらの対処は爻によって異なりますが、どんな状況であれ自分のトータルな力をどう使うか――豊では一本化して全身全霊で短期決戦、渙では短期戦でも長期戦でも、また総合力であれ個別の機動力であれ、時と場合に応じて対処できるようなフットワークの軽快さが求められます。
類似関係は山雷頤。頤と渙は屯・晋から25番目で3巡目(7→16→25)の7。7は陽数・奇数で外向きのエネルギーですので、25でも内から外へ向かう力の流れを方向付ける手段に関わります。まずそのポジティブな側面は、自分自身や他者に対しての制御作用です。頤も渙も自分のみならず周囲の人間を巻き込んで事態が展開する傾向があります。それは養う者と養われる者の関係を示す頤と、個である私と全体を構成する社会や周りの人達との関係を説く渙にまつわる因縁的な性質です。なお、社会や周りの者が関与しない場合、あえて孤独を選んで、とことんまで自分の資質を追及することが多いだろうと思います。それはつまり、まだ自分の力を社会に還元できる段階にないということだからです。なので、いつか実力が備わった時には、色んな意味で周りが本人を放って置かなくなるでしょうし、自分自身も持てる力で誰かの役に立てるならば是非ともそうしたいと願うようになるはずです。
一方、ネガティブな側面は、5で身に帯びた責務の達成が6で果たせなかったことに対する罰則・淘汰、及び自身を咎める気持ちです。分かりやすくいえば、宿題をやり忘れて先生に叱られている子供のようなものです。これは最悪、自分を深く傷つけたり、心理的なトラウマとなったり、誰かや何かを再起不能にするような尖った作用をするので注意が必要です。徹底して取り組む姿勢は、裏を返せばストイックさ(=禁欲的に厳しくなる)としての危険も内包しており、時に狂気にもつながります。渦巻く感情や愛憎の絡んだ人間関係の中で凶行に出ないためにも、それらを適切に昇華する方法を本人を含めた関係する人々と共に見出さなくてはなりません。
補完関係は地水師、その先のヴィジョンは水地比。師は戦いの卦ですが、同時に集団性をも意味しています。大挙して攻めたり退いたりする。そして、その結果として優秀な働きをした者が論功行賞の対象になり、その実力を買われて有力者の側近となったり、「昨日の敵は今日の味方」というように認め合った者同士で親しくなったりします。渙を補完する師は集団性であり、命令系統(意志の統制)としての指揮が重要です。譬えるならばコンダクターが抜けていてはオーケストラが成り立たないのと同じです。渙には節のような締まりがないため、何もしなければ出て行ったきり帰って来ないかもしれません。それは演奏者が好き勝手に演奏しているようなものです。ここに師としてのリーダーが所望される理由があります。ただ、単なるごり押しの指揮者では人はついてこないので、そこに水地比としての信を寄せるに値する人間性が求められることになります。
<爻意は後日、追加更新します。>