困は困るの意。困窮・困難・困惑など全般的に困の字のつく言葉が示す意味を持っています。絵続きで読むならば、地風升での上昇力が損なわれた状態。翼をもがれ、あるいは疲弊し、まともに動けず、思うに任せない事態に陥ってしまった。春夏と葉を茂らせた樹木が、秋冬を迎えて枯れ木となったイメージ。落日の象。成功者(升)から落伍者(困)への暗転。易の体系の基礎は陰陽ですから、地風升のように上がれば沢水困のように下がります。端的に言えば、地天泰で膨らめば天地否で縮むし、水山蹇で遭難したら雷水解で救助されるのです。卦によって出方は異なりますが、それぞれの状況下における二面性を見ることができます。
困卦は二・四・五の陽爻が陰爻に挟まれている形象で、誰かから無茶なお願いをされて気苦労を背負ったり、自主的な行動がしづらい状態になりがちです。もっとも、その程度ならまだ何とかなるのですが、お金が絡む話になったり、無理が祟って体に障るような事態になったら、さすがに引いてしまうでしょう。一種の試練とでも言うべき状況の中で、自分自身の心を強く持つことができるかどうか、それがキーポイントになっています。ちなみに、四大難卦(屯・坎・蹇・困)の内の一つと言われていますが、僕は特別扱いする必要はないと思っています。それぞれの卦に価値や意義がある。それを理解する前に偏見を持っては、どこかで見落とすものが出てきます。
裏卦は山火賁。賁は装飾の卦でした。沢水困の枯れ木・落ち葉との対比で考えるならば、賁は色彩豊かな紅葉です。見た目麗しく華やかで、見るものを楽しませてくれますが、それも時期が来れば全て枯れ落ちてしまいます。ただ、本質的には賁も外面を飾ることから内面を磨くことへとシフトチェンジしますから、根底においては困と繋がっています。困の場合も困窮の極みに相当するため、これも最終的には心身を解放する方へと向かいます。任を解かれたり、大切なものを失ったりしたことで、それらに対して回顧しつつ改めて深い感慨を抱く。ちょうど「オーリとトゥルーファ」という二枚の葉っぱの物語のような感じです。人生や死生観についての、これまでにないほどの洞察と大観。
綜卦(賓主法とも言う。主客転倒させた視点の考察。江戸時代の易学者である真勢中州が用いていた技法とされます)は水風井。井は井戸のこと。地を掘り下げ水脈を見つけ出し、汲み出して生活に役立てる。困で泉の水がなくなってしまったが、水源を求めることで、また活力を得られるという暗示です。その人にとっての源流とかルーツに関係しています。それは血脈や地域性であったり、先代から受け継がれた意志であったりします。また、さらに大きな意味では国民性や民族性、地球人としての世界規模で共有される意識とリンクすることもあるでしょう。困として表面的には枯れ果てたかのように見えても、より深く掘り下げてみることで脈の力を引き出すことができる。それが井の象徴する内容です。
意味的にシンクロする類似関係は地山謙。共に屯&晋から13番目で2巡目の4です。4は遇数で陰ですが、2巡目で符号が反転するため、性質的には現実面で見て取りやすい形として現れてきます。どちらも升と大有という力のある卦が前提にあり、その反動として物理的および精神的な歯止めが掛かる状態です。傲慢さに驕れやすい大有を謙が戒め、より上位を求めて猛進しがちな升を困が諌めるという風に。そもそも流れとしては謙も困も大有や升という凄みを経験していることが多いので、基本的にヤリ手のタイプです。ただ、結果的にエゴが増大して周りを見失ったり、我を忘れるほど関与しすぎた結果として、欲や行動をセーブされる(または自分で気がついて反省する)形になっていくわけです。
補完関係は地沢臨で、一歩先のヴィジョンは風地観です。臨は希望を見出すこと、後世を育成すること。そして観はそのための手本となったり、育って来る芽を見守ることに関係します。困を不毛の土地に譬えるならば、臨はオアシスのようなもの。そして、その安息所という目標を見つけるために観という高台に登るのです。また例えば、長い航海で疲労困憊して憔悴しきっている船員がマストの上から望遠鏡で祖国の港や仲間の船を見つけ出すようなイメージと言ってもいいかも知れません。困は確かに自分の思い通りにはいかない傾向がありますが、だからといってそこで挫けたら報われません。不退転の決意をもって、活路を見出せるまで辛抱強く耐えることが肝要だろうと思います。
<爻意は後日、追加更新します。>