升は昇る、伸び上がる。飛翔への階梯の意味です。外卦坤も内卦巽も陰で、自分自身の力だけでは大きな跳躍はできません。そこで、人々の力添えや協力、援助を受けることで成長を遂げていく運気です。周囲の流れに逆らわず、巧みに自分の力として取り込みながら上昇の機を窺う時。人々が集まった場所でライブ・イベントを行ったり、衆目を浴びる場面でパフォーマンスする等、綜卦の沢地萃で人や物や情報を収集した結果、自分を成長させる力として活用する状態。ただし、後援者への感謝を忘れたり、浮かれて本分を疎かにしていると次の沢水困の兆候が現れてくるので注意が必要です。
錯卦は无妄。妄(みだりなこと)を无(しない)という意味。本人にとって初めから存在しないものとして取り扱う。勝手なことをせずに、自然の成り行きに任せるという姿勢。博物館や美術館にある「展示物に手を触れないように」という注意書きに似ています。傷つけたりすれば大ごとです。本卦の地風升には自分の立場を周りに認めさせるために無理な背伸びをすることがあるのですが、それと全く逆の姿勢が无妄です。自分を偽らずにありのままを出すというスタイル。升が持ち前の人心掌握能力をいかんなく発揮してゆくのに対し、无妄はそうした人為的な働きかけを忌みます。大人またはエリートとしての視点から社会や物事を見ようとするのが升ならば、子供(純朴な見方をする人)として世界や環境に関わろうとするのが无妄というわけです。能力・能率・才覚主義の升と、ナチュラルな生き方を専らとする无妄という対比。
類似関係は火天大有。人材・物資・金・データ・技術などを大量保有すること、またそれらを使うことで成果の大きな仕事を成し遂げようとする働き。個々の能力の結晶。集中化の過程。特殊性や専門性を総合的に活用するシステム作り。自らの可能性をとことん追求し、高度化させることで、システムの頂点に立とうとする心理。ビジネスシーンや知的活動、他者を蹴落としてでも勝利を得ようとする場面に向きますが、あれやこれやの優劣や勝敗に振り回されている内に競争や意地の張り合いに疲れてきます。そして、自然な流れとして次の沢水困や地山謙へとシフトチェンジすることになります。困や謙は背負っているものを省みて、改めて人間性を取り戻すというプロセスです。
大有&升は屯&晋から12番目の卦で2巡目の3。共に社会システムの中の上昇と下降という有様を見て、他の人よりも上に、高く、深く、優秀に、有名に、強く、豊かでありたいといった願望を抱く傾向があります。というのは、多くの大有や升はそうした状態にないためです。貧しさや劣等感というような何らかの負い目を感じている人が、自分を奮起させて満たされた人生を手に入れることに努力を集中していく。つまり、初めから環境や地位に恵まれているような人に大有や升は似合わないのです。
向上意欲が強いので、押し付けがましいほどに教育熱心だったり、偏差値にこだわったり、物質的な価値観にとらわれやすい傾向がありますが、あまり行き過ぎないように気をつけなくてはいけません。確かに、目標に向かって努力し、比較や競争に勝利することで充実感を得たり、昇給・昇進を叶えたりすることもあるでしょう。けれど、その源となるエネルギーが常に自分自身の内側から生み出されていることを自覚しておかないと、単に世間一般の価値観に流されるだけの日々になってしまいます。自らの本源から溢れ出る意志の扱い方を誤ると、たとえ誰かより優秀になっても喜びは長く続かず、後で強烈な空しさに襲われて疲弊します。これは注意事項として知っておかなくてはなりません。
補完関係は風地観で、その先のヴィジョンが火雷噬[口盍]。観は観察する、仰ぎ見る。噬[口盍]は噛み砕く、障害を除くという意味の卦です。地風升は地中の養分を吸って生育する木に譬えられますが、観はそれを仰ぎ見るオーディエンスという関係。または、育ってくる樹(升)を見守る人(観)という構図としても良いでしょう。とにかく、補完する両者の関係があって初めて優劣や大小といった概念が成り立ちます。そしてここに噬[口盍]というヴィジョンが示されることで、障害を克服して進もうとする性質を帯びてきます。これは向上心や競争心の一つの表れですが、良い面も悪い面もあります。良い面はライバルと凌ぎを削って切磋琢磨することで互いに伸びていくこと、または自分自身の弱点や怠慢さを打ち砕く意志が強化されること。そして悪い面は、相手を蹴落としてまで優位に立とうとすることです。先にも書きましたが、自分の本来の欲求が何なのかを自覚し、それを忘れないことが大切です。
<爻意は後日、追加更新します。>