[女后]は邂逅(思いがけず出会う)、遭遇する、鉢合わせるというほどの意味です。全く関心のなかった分野とか相手ということもあるでしょうが、多くは愛着や心残りのある事柄が対象になってきます。偶然の出会いのように思えることも、その実は裏で必然性(縁)が働いているものです。夬からの流れで読むと、これはゲームのセーブポイントのような役割を果たしています。夬で重要なイベントを控え、その直前でセーブする。そして仮に判断や行動に失敗したり、遣り残したことがあれば、再度セーブポイント(未練のある場所)に戻って再開する。裏卦の復では、前の剥で根本的に崩れてしまったために最初から立て直すためにリセットしますが、[女后]では自分の置き土産(名誉などの執着すること、汚名などの不始末)を挽回・返上する仕事が待っているのです。
卦を分解すると、外卦にある乾は広大な世界、内卦の巽は社会に吹き渡る風(データ)。風は象徴的に流説・デマ・噂・宣伝・広報などを意味しています。安らかな生活の中に突如、平穏を崩す出来事が発生して心が動揺する状況。突然の電話や来訪者に調子を狂わされるなど。また、全陽の男ばかりの世界(仕事)に、やり手の女性が参入してきた形。ただ、この卦は得卦した人が男か女かで意味が異なってくるので注意が必要です。
陰陽錯卦は地雷復。復は復調・再起・返り咲き。リスタート・リベンジ・カムバック等の意味です。過去に培われた経験が別の形で復活したり、物事が休止状態から再始動する。また、そのための動機付けとエンジンの点火作業(鍵を回す、ボタンを押すなど)のこと。例えるならば、冬眠から目覚めた熊、寝起きのコーヒー、目覚まし時計といったイメージ。復は坤という一時停止から再生という流れですが、[女后]は乾でフル回転しているところへ横槍(摩擦)が入るような状況です。とはいえ、この働きも一時的なものでなくなると、それにふさわしい価値や意義を帯びてくるようになります。
類似関係は天地否。否は塞がる、つまり閉塞状況をもたらす卦です。圧迫・圧縮・プレシャー・セクハラやパワハラなどを象徴しています。地天泰とは逆位相なので、思うようにいかない(気持ちが萎んでしまう)状態を意味します。大体、周りの人(年上や上司など)から何かを強要されてストレスを感じるケースが多いですが、そこで潰されないように心を強く持つことが大切です。自分の能力や言動を批判されたり、時には存在意義や信念などを否定されるかもしれませんが、ここで圧力に屈して心が折れてしまってはダメです。ただし、あからさまな反抗に出る必要はありません。辛抱強く自分の生き方を貫く姿勢を崩さなければそれでいいのです。「非暴力・不服従」の精神を貫いたマハトマ・ガンジーのように。
また、泰では天地交合によって子としての同人が生まれますが、否ではあれこれ試すもダメで悲観に暮れがちです。対する[女后]では、先の夬で排除された陰の逆襲が起きています。陰としての有意性を認めてもらうための抵抗や顕示。環境に自分を滑り込ませようとする心理。自己主張の足がかりをつかむ段階であり、地位向上や生活の安定を求めて行動します。目的意識が強く頑張り屋である反面、有望そうな異性や大物に取り入るような(色目を使ったりなど)、一種の狡猾さとか要領の良さを発揮して生き抜く傾向も見られます。[女后]のベースには、自分なりの方法(魅力・特技・才能・資格などの自覚している武器)を応用できそうな分野に進出したいという意思があります。もしそこで適切な場に入ることができたら、苦労はありますが、やがて次の同人&萃としての味方や仲間が集まってくるはずです。
補完関係は山火賁。賁は飾るという意味です。化粧したり、キレイな服を着たり、高級車に乗ったり、そういうことに飽きて自分の内面を磨いたり…。それは[女后]にしても同様です。初めは誰かのご機嫌取りをしたりお世辞を言ったりして歓心を買おうとしていた人も、やがて人としての内面性や中身で判断してもらいたいと考えるようになります。男を磨くとか女を磨くということの延長線上には、人格や心の在り方まで含まれているはずだと思います。これは賁としての外面的な装飾を剥ぐということでもあるでしょうし、[女后]としての誘惑的な関わり方ではなく、人々が喜んで集まってくる(萃)ような人柄になりたいという願望の表れでもあるでしょう。
<爻意は後日、追加更新します。>