*坎為水 / The Abysmal


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29.坎為水

坎は習坎と言われ、坎(穴・険しさ)が習(重)なるの意味。習は連続、重複、連鎖、反復、繰り返し。スパイラル(螺旋)にはまったり、渦に飲まれて抜け出せないイメージ。何度も同じ問題・苦境にぶつかるなど。特に、ネガティブ思考がグルグルと頭から離れないことが多く、陰鬱とした表情をしたり、人生に対して悲観的・否定的な態度になりがちです。これにより関わる人に不快感(イライラ・落胆・失望・怒り等)を与えてしまう傾向があります。他には、コンディション最悪な状況、体調の悪さ、過度のストレス、恐怖体験など険しい事態との遭遇、相手に欠点や短所を指摘されたり、嫌というほど直面する事態。自分の醜い部分(冷酷さ、ドロドロとした欲望など)をまざまざと知って自己嫌悪に陥るといったことです。

坎を得る時は自分自身のネガティブさ、特に心の弱さを思い知る傾向があります。金銭問題や対人関係で心労が溜まっていたり、酒や異性に耽溺してしまう状況だったり、苦しさに負けて自暴自棄になりかけていたり…。扱っている内容や商品などに欠陥があるか、練り込みが不十分(勉強や経験不足)なため、実用に耐え得ないケースが多いです。クレームに悩まされる傾向。反論されて「ぐう」の音もでないことも。もし話が平行線を辿るとか水掛論に終始するようなら、適当なところで互いに妥協するか、手を引いた方がいいでしょう。深追いすれば傷つけ合うことにもなりかねません。それらは主に心理的な脆さ・流動性・不安・心配・恐れなどの感情を媒介にしており、その人にとっての精神的な欠点(弱点)を意味することがあります。

また、坎は物事の裏側(暗い面、見えない面)を象徴しており、背後から糸を引く黒幕的な役割を担っています。離の理性・知性に対する感情・情動です。現実を操っている潜在意識と呼ばれるもの、あるいは集合的無意識(集団意識の感情体)と考えることも可能です。仮に表層意識を離とするならば、坎は深層意識です。適切なガイドもなしに坎の中にダイブすることは、海底に引き込まれるような危険を伴います。命綱のある内に脱出の機を逃さないことです。現代では、物理次元の現実的出来事に限らず、精神領域の暗部に関するものは、基本的に坎に示されます。精神修養あるいは潜在意識を自由に泳げるような訓練の必要性。また、そのための深いリラックスを得ることの重要性を認識します。

このように坎(水)は、その人の安定した日常生活を揺るがすような作用をするので、一般的な見方からすればネガティブに思えます。しかし、そうした状況を魂とかハイヤーセルフといった本質面から捉えると、位相が逆転するために苦しみが成長のための糧になっていたりするので、あなどれません。一種の試練として昇華できれば、心は何倍にも強くなれるはずです。苦しい状態の中でも、腐らずにヤケにならずに自分の目的・信じていることに向かって進んでいけるか、その精神力や根性が問われています。折れない心、挫けず諦めない強い心への憧れ。「死中に活を見出す」ことの難しさは誰もが実感するものですが、実際にそれができた時の驚愕的な体験は見ものです。

陰陽での二面性を考えると、坎と離はネガティブとポジティブ、つまり否定と肯定、暗と明といった関係にあります。人や対象を拒絶するか認めるか。あるいは相手の深部にまで関わろうとするか、表面的に知ろうとするだけか。坎は物事の本質を洞察する性質なので、表面的な理解で満足することを拒絶するのです。社会に生きる上では、普通よほど親密かトラブルなどでいがみ合っていない限りは深く相手に関わろうとはしません。坎の精神は関わる相手のプライベートや感情にまで浸水してゆく感じなので、それを嫌う人には誤解を受けたり、あからさまに否定されたりもします。一方で、心の奥底まで通じ合おうとする場面では、坎の働きが役に立ちます。

たとえば、先の潜在意識などの深層心理を探る場合、離卦のような知的アプローチでは的を外します。何かを体験した時にそれを今ある知識とか経験則に置き換えて解釈してしまうと、その時点で体験が伝えようとしていた本質からズレてしまうのです。下手に学識があると、それに依存してしまって経験の本来の意味を汲み取れなくなってしまうことがあります。もちろん、現実を生きていくための知識とか情報は必要ですが、人間のより深い意識を探求する際には、そうした表面を飾るアクセサリーは役に立たないので取っ払ってしまった方がいいのです。世間的な知識や学術的な技法は、実際の経験を心で感じた後で、確認や分析のために使うといいでしょう。

ところで、坎為水は八純卦の一つであり、さらに現象の本質的要因である乾坤坎離に属します。乾坤坎離の四純卦は他の60卦とは異なり、平均的な連環の中には含まれていません。これらはあらゆる出来事の原因や条件として作用するものです。すなわち、“意思(思考・想念)に端を発し(乾)、意味と感情を付与され(坎)、言葉やイメージとして表され(離)、世界という器に投影されて顕現する(坤)”という現象化の法則そのものを表わしているからです。

より細かく見るならば、乾(金)は坎(水)と相生関係で、その坎(水)は離(火)と相克関係です。八卦としてみると、前者が先天、後者が後天の働きと言われているものです。同様に、離(火)は坤(土)を生じ、坎(水)と克しています。ここでいう生じるというのは、より質量(重み)を持つということで、克するとは位相が逆転することを言います。形質変化と状態変化と言い換えても良いかもしれません。ともかく、坎は乾という親より生まれ出でて、自身の状態を変化させることで離へと繋ぎます。そして、今度は離のヴィジョンが坤としての実際の形に変化していくわけです。これが、四純卦の持つ本質的な意味合いです。


◆初六

大過の上六で頭まで水に浸ってしまった人は、ついに底なしの深み(穴)へと落下してしまいます。一度、悪循環に嵌ると抜け出すことは困難です。習坎の習は繰り返すとか重なるという意味。「弱り目に祟り目」「一難去ってまた一難」といった言葉がありますが、そうした追い打ちをかけられる状況を表しています。まずは、今自分がどんなことに関わっているのか自問自答してみて下さい。それは誰にとって必要ですか? 私利私欲のため? それとも利他の気持ちからですか? 正義? 必要悪? 変卦の節初九では門外不出の秘密として取り扱うことを、坎初六では吐き出してしまいます。陰謀や組織的詐欺を暴くための内部告発、逆に他企業の極秘情報を探る産業スパイ、秘密の作戦の密会、対立する相手や組織との駆け引き、推進派と反対派との攻防、感情の矛先を社会革命という形で表現する人々、脅迫観念もしくは生きる意味を見出せない人達が身を投じる破壊活動、とんでもない誤解や思い違いをしていたことに気がついて態度や立場を改める等々。形態は様々ですが、苦しみの渦中で救いを見出そうと必死になる点では共通しています。捨て身の行動が多く、目的のためには何が犠牲になろうと構わないのか、「何かを得るには何かを捨てなくてはならない」という考えに取り憑かれている人もいます。あるいは、そもそも目的すらない虚無の中に身をやつしているだけなのか…。これが個人的な範囲で収束するのならばまだしも、大勢を巻き込んで暴動的な形で現れると危険です。そうならないためにも、今の立脚点に対する自問自答と必要に応じての転換・転身が求められています。

◇九二

坎の卦象は水。水は社会の集合意識であり、また各々の感情や潜在意識の象徴です。それは災害をもたらす濁流にもなれば浄化のための清めの水にもなります。絶望の中でどんな希望を見出すのか――それは陰中の陽としての九二や九五への問いですが、その微かな希望の光を大切に育てていくことが、この危難を乗り越えるための鍵です。一刻でも早く今の状況を脱したいと思うのが心情だとしても、焦って無茶をすれば、さらに状況を悪化させてしまいかねません。苦境にある中で下手にリスクの高いことに手を出して自滅するよりは、今できることを反復する中で日増しに向上していく道を選んだほうが賢明です。変卦の比六二は比九五と正応で共に正位でしたが、こちらは陽同士で不応。不遇に心を痛めて同情することはできても、なかなか実際的な支援は難しい状態です。今は間接的にでも取り組めることを見つけて、それを中長期のスパンで続けていくことが大事です。時間が掛かると知れば不安や苛立ちを感じると思いますが、これ以上の深みに嵌って痛みを倍増させるわけにはいきません。また、この時期は様々な事柄に対して根源から問い直すきっかけにもなるため、改めて底辺から生き方について考えたり、人と人との繋がりや助け合い(卦辞に言う孚=誠心:大過と坎の間には風沢中孚が繋ぎとしてある)を再評価することにもなるでしょう。逆境の中でこそ得られる重要な気づき、それが今後の人生の流れをすっかり変えてしまうかもしれません。注意すべきは、重要なことを偽装したり見栄を張って誤魔化そうとしないこと。ありのままの現実に向き合わず体裁を守ろうとすれば、本当に「弱り目に祟り目」になってしまいます。

◆六三

水は、停滞するような場所でもなければ重力に従って上から下へと絶えず流れ落ちます。この六三の原文は「来るも之くも坎坎たり」で、上下の坎に挟まれ、まさに「前門に虎を拒ぎ後門に狼を進む」という中国の諺の如き状況。それまでの自信を打ち砕かれるような衝撃的な事態に遭遇したり、心身共に逃げ場のない辛い状況に陥りやすい時です。そして一度この流れに捕まると、再三にわたって苦痛や心労が訪れます。変卦の井九三では実力はあっても登用されない苦しみが描かれていますが、ここではそもそも実力の無さや不備が指摘される状況です。自説を論破されて動揺する、思考や行動を見透かされて物理的・心理的に逃げ道を塞がれる、スケジュール的に定期的に苦手な人と会わなくてはならない、風邪と花粉症が重なって酷い頭痛や鼻水に苦しむ(病気の合併症)、客から苦情や罵詈雑言を浴びせられただけでなく上司の逆鱗にも触れてしまう等々。ヴァリエーションは人によりけりですが、“踏んだり蹴ったり”という点は同じです。結果、気持ちが沈み込んで「もう何もせずに、ただ休んでいたい」と思いたくもなりますが、かといって勝手に放り出すわけにもいかず、辛くても時期が来るまで耐える他ありません。自暴自棄になっては元も子もなくなってしまいます。どんなことも永遠には続かないこと、そして相手や物事に対する見方・考え方を変えることを学ぶために、この経験が用意されていたと考えれば、少しは気分も楽になります。恐れ・怒り・不満といったネガティブな感情で心を満たすのではなく、自らの至らなさや未熟さといった弱点に気づかせてくれたことに感謝するところから始めてみましょう。それが自分自身への慈愛となり、やがて他者に対する恩返しへと形を変えていくことになるはずです。

◆六四

陰位陰爻の正位で九五とも比し、さらに下卦の坎を抜けたことで気持ちが幾らか楽になる時期です。不遇を嘆くばかりで特に何もできずに苦しんでいた人も、ようやく何かやれそうなことが見えてきます。周りを見渡して手伝えることがあれば、協力を申し出たり、仕事の一部を引き受けたりするのもいいでしょう。しかしまだ険難が過ぎ去ったわけではないので、遠大な夢や空想に溺れず、今できることから少しずつ状況を改善するように心がけて下さい。あれもこれもと手を出さず、一つのことに対して内助を尽くしましょう。ところが、本人にやる気はあっても信頼が得られていないために邪魔者(足手まとい)扱いされる場合もあります。新しく仲間として受け入れてもらうにはそれなりの理由が必要だからですが、焦らずに今できる範囲で支援をしていればやがて認められるはずです。坎の水は心理的な働き、つまり感情や人情の織り成す複雑な人間ドラマも表しますが、この六四のテーマはパートナーシップや協力関係の構築――広い意味での人間関係の構成について考えることにあります。大きな目的を達するために個々の利害(普段の敵味方などの立場の違い)を超えた関係性にどう携わっていくかが問われている部位です。そうしたテーマを経験する前提として、突発的に予期せぬ問題が持ち込まれてくることが往々にしてあります。それは一見すると外発的なトラブルに思えますが、実際には自らの内に原因が潜んでいて、それに気づかせ解決させるために生じたものと考えることもできます。この事態を平定するのは一筋縄ではいかないかもしれませんが、周囲の人達と連携することで必ず突破口が開けてくるはずです。

◇九五

水はその性質から高きから低きに流れるもの。わざわざ最上部(上爻)を通るのは不自然です。それゆえに、坎卦の険難を脱する最善策はこの九五にあり、次善が比爻の六四となります。上六まで上り詰めようとすることは人為的に自然に抗う行為であり、実のところそれこそが坎として難事をもたらしている元凶だと言えます。いつも作為的に事を運ぼうとすれば、やがては自業自得の因果の鎖に絡み捕られて苦しむことになります。さて変卦の師六五では、「他国からの侵略に際しては有能な指揮官を立てて迎え撃つべきで、そうでない者を将帥にすれば、いかに大義ある戦いといえども負け戦になる」と言っています。師では集団を率いる場合の適任者の重要性を謳っており、その意味内容はこの坎九五にも通じます。道理や自然の摂理に沿う気持ちこそが危難を潜り抜けるための鍵。適格でもないのにしゃしゃり出ると失敗します。つい野心や利得に駆られて存在を主張したくなるかもしれませんが、下手に飛び出せば出る杭は打たれる式に憂いを見るのは必然ですから、ここで思い止まらねばなりません。坎から坤に変化するように易しい道を探して、素直に地道な生き方を選択することが肝心です。または、もし組織的な働きかけとして強い力(アイデアや技術など)を持っているならば、それを仲間内の利権や我欲のために使うのではなく、社会や人々の幸せに役立てるようにして下さい。それならば周りからとやかく言われたり、天に唾する形で苦しむことはないでしょうし、ずっと良い形で自分自身にも恩恵が返ってくるはずです。師卦の将帥に五常の徳(仁義礼智信)が必須なように、坎卦の勇者にも自己に対する厳しさと人々に対する誠心が求められています。他の訓示としては、戦国武将の黒田如水が創ったとされる水五則や老荘思想などを参照にするのも良いと思います。

◆上六

陰位陰爻の正位で九五とも比すという意味では九四に似てますが、上下の立場が逆です。九五に協力するどころか、身体的・状況的に拘束されて身動きが取れなくなっている人を象徴します。仲間や家族がピンチに陥っているのが分かっているのに助けに行けないジレンマを抱えます。自分が助かろうとすれば誰かを犠牲にしてしまう、相手の都合や気分次第で事態が変わってしまう等で、こちらとしては万事休すという場合になることも。ただし、この爻を得たからと言って何でも悪い状況をイメージして恐れる必要はありません。信を託すことによって友人知人に助けられたり、友達感覚で接してくる軽い調子の相手を乗せてその隙を突いたりすれば難を逃れられることもあります。変卦は渙上九で「その血を散らす」という内容。普段は問題の渦中から遠ざかっているが、外部から一時的に現れては状況を変えて去っていく、またその間に家族や友人を危難から逃したりということをする人を象徴します。裏を返せば、この坎上六はそうした人の支援によって“蜘蛛の糸”的に助けられる可能性があるわけです。しかしそのためには意固地にならず、相手に心を開いてその人となりを見たり、よく話し合ってみることが大切です。誤解や不信のあるままでは状況は改善されません。また、そうする中で特別な何か(例えば心技体など)を学び取ったり受け継ぐこともありますし、自分の失敗の原因や至らなさに気がつかせてくれたりもします。そこで修正できれば、もう恐れや問題の原因を自ら作り出すことはなくなっていきます。そしてそれこそが、この坎卦における課題と言っても過言ではないと思います。

※卦意は2009-09-05にUP。爻意は2011-08-22に追加更新。


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