*沢風大過 / Preponderance of the Great


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28.沢風大過

大過とは、その名の通り大き過ぎることを意味します。過剰・過多・荷の重さ・責任重大。職場やグループの中での「柱(中心人物)」になれと言われて、その重責を感じたりします。あれもこれもと欲をセーブせずに詰め込んだ結果、扱いきれないほどに膨れ上がってしまった状態。または頤で食べたものが消化不良を起こしている状態。情報の取捨選択、人員整理(削減)、無駄な経費の見直しなど、やるべきことは山積みです。リストラや希望退職を集うなど、苦渋の決断を伴うこともあるかもしれませんが、ただ切り捨てるのではなく、これまでの感謝を込めた報奨やアフターケアを忘れないようにして下さい。

このように、頤のテーマが「養う・摂取(搾取)・費やす」であるならば、大過は「制御・削減・淘汰」がテーマです。PCで言えば、空き容量が不足している状況。余裕を確保するためには何かを削除したり、別の場所にデータを移す他ありません。先の頤で摂取してきた内容から本当に必要なものとそうでないものをチェックし、選別、整理整頓、廃棄またはリサイクル、移行作業などを行う工程。思慮分別を発揮する。重要度とか使用頻度の高いもの以外は捨てるか他所へ取り置いて、身軽(機敏に動ける状態)になる必要性。

時には、たった一人で重責を担って仕事を仕上げなくてはならなかったり、全権を委ねられて自分の選択一つで周り人々の生活が決まってしまうケースもあるかもしれません。かなり有能で危険な橋を渡れる気骨もありますが、際限なく働こうとするために心身に強い負荷が掛かってきます。悪くすると限界を超えて次の坎為水に突入してしまい、オーバーワークによる心労・睡眠不足・憔悴・アルコールに逃げる・うつ病や燃え尽き症候群などの病気に発展してしまう恐れがあります。これを回避するには、どこかにストレスを解放してやらなければなりませんが、自分一人で解消することは難しいので、理解のある上司や家族・友人のサポートが大切だと思います。わずかな間でも仕事や家事を忘れられる“ひと時”を作ってあげるのも良いかもしれません。

頤では、家族や大切な人達を守り、養っていくために自分の好きなことへは1円も回せない状況だったかもしれません。逆に、趣味に財をつぎ込むあまり、家族から白い目で見られていたかもしれません。さらには、他人には構ってられないという心理状態になるほど、衣食住や仕事のことで頭がいっぱいになってしまうこともあるでしょう。社会的な義務や責任があればそれに応じなくてはならないし、今の生活や老後のためには仕事を詰め込むのもやむなしと考えているかもしれません。それも昼も夜も休日も関係ないほどに、です。

しかし、精神的にも体力的にも自分が受け容れられる限界にまで行き着いた時、すなわち大過になった時に、ある重要な選択(転換)を迫られることになります。経済的な事情の有無に関わらず、健康上の都合で「もうこれ以上は働けない」という事態に見舞われたり、責任の重さに押しつぶされて自己崩壊を起こしてしまったり、今の環境や人間関係に見切りを付けて一人よそへ行ってしまったり、急に恋人を見つけて今していることから関心が逸れてしまったり・・・と様々です。精神のギリギリにまで負荷が掛かるせいか、その人にとっての別の可能性とか、飽和点を超えたことによる人格の変化、鬱積された感情などが現れてきやすいのだと思います。

シンメトリー関係は節。大過が異常なまでに膨れ上がっていくのに対し、節は適宜、壁や竹の節のように区切りを入れて自己制御を試みます。ドミノが連鎖的に倒れないように、所々にストッパーを差し込むようなイメージです。現状把握の結果、風紀の乱れや混乱を防ぐために規制(行動指針)を設けざるを得ない状況。折り目を付けたり、正す。緊急事態が起きた時に慌てないように避難訓練するとか。これらの節は、あたかも信号機や国境の関所のように要所要所に置かれます。

大過・節は、屯・晋から26番目で、かつ3巡目の8。8は現実を生き抜くパワーを示唆する数字ですが、2巡目の8(17)では自分を裸にされるような葛藤と対峙し、3巡目の8(26)では社会に生きる人間としての自己実現を求めます。これは自分の生き様を追求する試みなので基本的に孤独な闘いです。しかし、このテーマが達成されることは今よりも変化に強い自分を見つけることと同義なので、現実的に障害があっても心は前進を求めているはずです。

先の頤・渙の段階で、本当に必要なものや普段から頻繁に使うものを自覚して整理すると、この大過・節で携帯すべきものが明確になります。これまでの経験を総括することで智恵も身に付きます。取り込むだけ取り込んで雑多になってしまった苗床から、今後に役立ちそうなものだけを抽出してテイクアウトする。大概、この選択には周囲の反発や引き止めを伴いますが、もう気持ちは離れてきているので、抽出したアイテムなり精神を携えて新しい可能性に挑戦していこうとするでしょう。そして、この行動がどのような展開を見せるかは、坎・離という人生の本質面に向かうか、別の価値観としての咸・恒に向かうかによって変わってきます。

補記:「大に過ぎる」の意味から、通常は正位(陽位陽爻・陰位陰爻)が良しとされるところが、この卦では逆になっています。つまり、初六・九二・九四の不正位の方が反って陰陽のバランスが取れていい、ということです。逆に、剛強過ぎる九三・九五や柔弱過ぎる上六の場合、力が不均衡かつ偏重になってしまうため倒壊(棟木が撓む)の恐れが高くなる。こうした特異な見方は天山遯など他の卦にも適用されており、私達読み手には臨機応変な思考と発想が求められています。

あと、頤・大過のように上から見ても下から見ても同じ配列になっている卦は、他に乾・坤と坎・離、そして中孚・小過があります。これらは賓主法において、彼我(相手と当方)がそれぞれ同じ立ち位置(状態・事情)であることを示しています。


◆初六

頤の全ての爻の陰陽が変わると大過。中身が空ろな頤はどんどん取り込もうとしますが、大過では逆に中身が一杯ではち切れんばかり。しかも基礎や構造自体が壊れてしまうんじゃないかと思うほどの過重が掛かっています。そうした大過の始まりである初六は、頤からの転換に伴う意気込みは充分なのですが、自分の今の立場を考えて、無理せず慎重に事を運ぼうとします。経歴を汚さないように、大事なものを傷をつけないように、出鼻を挫かないように、という具合です。問題があれば始めの内に手を打つ、修繕する。下手な行動をすれば窮地に陥ることが十分に予測できるからです。大体、陽の一団に象徴される圧力が初九の人に強い(厄介な)ストレスをもたらしている例が多いです。親や上司や先生など上位者に面倒な仕事を頼まれたり、中には過去の事情や秘密などで付け狙われた人もいます。あまり表立った行動は取り辛い時ですが、それでも自分の抱く意志とか信念は貫きたいでしょう。また、自分自身に関してもより良い価値観を構築する最初の段階になり得ます。周りの意見に耳を傾けることで次第に物事の見方が変わったり、生き方や社会との関わり方を新たにする、そういうキッカケになる場合があります。ただし他者に影響を与えるというよりは、まずは自分自身の変容が先です。これを期に深く踏み込む所まで行く人もいるかもしれません。ところで、変卦は沢天夬の初九。これは勇み足で失敗する象意です。翻って、行動に当たっては計画や慎重さを要するという意味合いですが、それはこの大過初九にも通じています。「石橋を叩いて渡る」ではオーバーに聞こえるかもしれませんが、今はその位の気持ちでいたほうがいいだろうと思います。

◇九二

この九二と九五の原文は、シチュエーションは逆になっていますが共に年の離れた男女の恋愛を綴っています。老婆や老夫が若い人を貰うという内容は比喩です。「古い・堅苦しい・昔(知られざる過去)・土壇場(大詰め)・オールドワイズマンとグレートマザー」といった意味合い。確かに恋愛とか縁談のような結びつきを示す例も見られますが、それはこの卦や爻に限ったことではありません。むしろここでは意外というか変わっているというか、「一体、どんな感性(趣味)してるの?」と言われそうなところに意義があります。この爻は、過去の生い立ちや馴れ初めを含め、いったん自分自身、時に家系の深部に降りて、そこから力を引き出すことで気力を回復させ、改めて取り組むべき課題や新しい環境へと立ち向かっていく、そんな姿勢が読み取れます。これまで観念的に囚われていたことの真相を理解することで、心を縛りつけ変化への行動を制限していた鎖を解きほぐすことができる、という感じです。自己分裂的な状態を統合し、内的な解決を図ることで再生する。現象的には必ずしも男女として表現される必要はなく、人や物事の陰陽のバランスを取ることが鍵になっているようです。変卦は咸六二で「腓(こむら)=ふくらはぎに感ず」とあり、これは外的な刺激や要請に反応して一々動くことを示しており、そうした反射的行動ではなく、心の底から納得して自らの意思で動くようでなくてはいけない、と言っています。基本的に一方の爻の教訓は変卦の爻の意味と通じ合っていますから、この大過の九二でも、まず自らの深層のしこりや引っかかりを問い質した後に、新たな気持ちで人々や社会と向き合う必要性を説いているように思います。

◇九三

大過は元々その卦意として偏重を示しているので、この九三や応爻の上六は強弱が過剰になってしまいます。そのため、どちらの爻辞も凶という字が書かれています。上爻のほうは状況的に次の坎卦に引き込まれる形になりがちなので、凶といえども致し方ないという面はあります。しかしこの九三は自らの意志で危険に踏み込んだり、誤解を招くような行動を取ってしまうところに問題があります。芸術や感情など、それが何であれ自分の想いを正しく伝えたいのならば、見る人聞く人が分かるような形で届けなければなりません。独り善がりの考えでは理解されないのも当然なのです。それが原因で親兄弟間で亀裂が生じたり、生き別れになってしまった例もあります。また、自分の考えや常識だと思っていたことを揺るがすような話を知って判断不能に陥ったり、真実が分からなくなってしまったことも。その場合、これまで信じていたことや長年してきたことに懐疑的になり、それ以上進むことは困難です。まあ発想を変えて、そうして別の視点を得ることでより広い見識や包容力を獲得したと思えば、やがて落ち着く頃には人間的に少し進歩できるのかもしれません。ただ、この瞬間だけを見るならば当惑することになるのは確かです。変卦は困の六三で「石ころ道や棘の茂みに苦しみ、帰ったら帰ったで妻にも逃げられている」という爻辞。この人は、不幸の八つ当たりや不平不満を物に当てるタイプの人で、自分で失敗の原因を作ってはもがき苦しんでいます。当然、そんな人では妻にも呆れられてしまうでしょう。この困六三に対する教訓は大過九三にも通じます。大過の場合は、自信過剰や欲深さ、無茶といったことで他者と自分とを隔ててしまいます。「忠言耳に逆らう」ものですが、何とか受け入れて相手を、そして自分自身を許してあげましょう。

◇九四

大過の互卦は乾。乾はその対象の本質を鏡のように反映する卦なので、必然的に真剣にならざるを得ません。その中核である九三と九四を考えると、前者は陽位陽爻で反って強すぎで支えの限度を超えてしまった。一方、九四では不正位だけども大過という状況では陰陽剛柔のバランスを図ることができるので、一種の救世主的な頼もしい存在になれる可能性があります。例えば、仕事や部活動などで支柱的役割を任される人、一大事に対処するために走り回る人、他者の心の傷を癒すために良き理解者(カウンセラーや治療師など)になる人、病んだ精神を復活させるために心の奥深くを探索する人など、結構ディープでヘビーなことを行う傾向があります。当然、そうした負荷に耐えられる精神力が必要ですが、晴れて克服した暁には相応の成果が得られるはずです。変卦は井六四で「井戸浚え」(井戸を修繕・清掃・強固にする)の部位です。井戸内部のメンテナンスによって地下水を安心して汲み出せるようにする。井戸は地域社会の集合意識など幾らか広い範囲の深部を表し、そこでの状態を修復するわけですが、大過では関係する物事や個人が抱える問題の根元にアプローチしていきます。良くも悪くも対象に深入りするため、しつこい感じを与えたり受けたりしがちです。絆や仲間意識が特に強ければ、わが道を進むために離別を選択した人に対して納得できずに説得を試みるかもしれません。ただ、この状況での決意は固いので成功確率は五分五分、もしくは亀裂を生じる可能性の方が高いかもしれません。九四は陰位陽爻で大過においては過不足を調節できる位置にあるとはいえ、実際の個々の判断はシビアなので、神経が張り詰めたり肉体的に無理を通す人が多いです。結果の良否に関わらず、一段楽したら十分な休息を取りましょう。

◇九五

四陽の最上部で陽位陽爻の正位ですが、この大過の時において陽が強すぎるのは反って傷です。九五は応爻なく九四とも折り合えないので、ただ比する上爻と親しむだけです。ところが、上爻は上爻で陰に過ぎて頼りにならず、上に従うのは薮蛇です。たとえ理に沿った展開だと思えても、それは仮初、一時的なものに過ぎないと心得ましょう。この爻では自分の特異な能力を生かせるような状況がもたらされる傾向がありますが、大概は逆さというか裏目に出てしまい、自滅とまではいかなくとも哀れな結末となることが多いです。場合によっては、事態を逆撫でしてしまうことも。確かに可能性はあるとはいえ、せいぜいマニアックな評価が得られる程度で十全に働かせるには至りません。よって、ここで求められるのはあたかも心眼のような洞察です。自らの特性をよく理解すること、そして物事の事情や状況の進展をよく考えること。変卦の恒六五の教訓を考えても分かるように、既に永続性は保障されていません。目の前の利得に欲ぼけている間は見えなくても、冷静になって心の曇りを取り除けば、どこか不穏な空気が流れていることを察知するでしょう。それはズルやイカサマのようなものかもしれないし、一種の錯覚のようなものかもしれません。そうしたことに振り回されずに自分の本分を見極めれば、そこから何をすべきかが見えてくるはずです。今は一般性と特殊性とが絡まった状況になりやすいですが、もし「何か感覚がおかしいな」と思うことがあったら、まずは平常心を取り戻すことを意識してみましょう。

◆上六

坎為水の渦の縁、あるいは境界がこの上六です。澤(川)を渡ろうとして深みに落ち、首まで水に浸かってしまった状態です。溺れる寸前、あるいはもうアップアップしている時かもしれません。分不相応に重荷を背負い過ぎて沈み込んでしまった。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」で、余計な荷=不要な所有や欲目などを捨てれば身軽になって助かるかもしれないのに、そうしたことに固執するあまり、どんどん泥沼へと嵌っていってしまうのです。これでは助けたくても助けられない。かえって手を差し伸べたがために流れに飲まれてしまうやも知れません。高い地位にある者の驕り、自己過信、無駄な贅沢、高慢さ、リアリティの欠如した悠長さ…。理想と現実とのギャップ――求められる条件や資格と実際の能力との格差もしくは壁を痛感することになるでしょう。しかし、そんな状態でも事情から水(リスクへの対処や労力を要する環境)へ飛び込まざるを得ない。なんとも辛いものですが、時期的な理由などから他に選択肢がない場合が多そうです。同じ陰爻でも初六とは違い、陰位陰爻で正位なれども大過の時にあっては陰が過多となり、犠牲精神が強い人(不必要に負担を背負い込みやすい人)になりやすいのではないかと思います。自分の身を省みずに財産を投げ打ったり、容易く保証人になったりする人もいるかもしれません。変卦は[女后]上九で「その角に[女后](あ)う。吝なれど咎なし」。“角が立つ”と言えば事を荒立てるの意味ですが、[女后]上九では自分のプライドゆえに世俗の権力闘争など煩わしいことから厭世的になって避けようとします。ところが、大過では意味が反転して、わざわざ苦境に飛び込んでまで角を立ててしまうのです。それはそれで気概のある行動ですが、やはり危なっかしいことではあります。

 

※卦意は2009-09-04にUP。爻意は2011-07-30に追加更新。


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