頤(い)とは“おとがい”、下顎のことです。その口の形を表わした卦です。内卦震が動き、外卦艮が止まって食物を噛み砕いて消化を助ける。栄養を臓器や細胞に行き渡らせるような最終工程。関わる物事の全てを渇愛する心。ポイントは何を口にするか、つまり何を養分として摂取するかです。卦の形から上九と初九の二陽に挟まれた四陰が「食物」に相当しますが、それが消化吸収できるものなのか、またどんな影響をもたらすものかを、飲み込む前にしっかり考えなくてはなりません。
内側が四陰ということは、互卦が坤。頤の意味から空虚さや内容の無さを示すことも多く、誇大広告だったり、真実(内部に潜む問題点など)を伝えていなかったりと、口先だけで相手をやり込めようとする傾向もあります。騙されたりガセネタをつかまされないように気をつけましょう。分かりやすく言えば、食中毒になったり、パソコンでウイルスに感染するような危険性も伴っているのです。また、自分自身も中身のない話や、実際は火の車なのに体裁を守ろうとして見栄を張るようなことをしがちです。後々の信用を欠くようなマネは極力控えましょう。
栄養摂取して身体を養う、家族や子供を養育する、別の収入源を探す、今あるものに新しい素材や考え方を組み込む、海外から輸入したり地方の特産品を買い集める、インターネットやROMからソフトをダウンロード(インストール)する…。日々の生活においてどんなものを必要とし、取り入れているか、これがその人の生き方を決めていると言っても過言ではありません。普段どんな情報に接しているか、ライフスタイルの源や糧としていることは何なのか。また、一日の時間の大半を何をすることに当てているのか、何を考えながら過ごしているのか、そうしたことを振り返ってみましょう。
そしてそこで気がついたことを、良い点もそうでない点も含めて全体的に見直すのです。何が必要で何が不要か整理整頓して確かめる。例えば、余計な出費はしていないか、もっと使い勝手の良いものを手頃な値段で手に入れられないか、買ったものを実際に使っているか(例えば買った本を本棚に直行させていないか)、必要なくなったものを放置していないか(欲しい人に譲ったり、別の形での再利用を考えてみる)、無駄に地球資源を浪費していないか、etc...
子沢山(保護してきた動物も含めて)で家計が圧迫されているような状況もよく見ます。とても親の収入だけでは養っていくことはできず、子自身の早い自立が促される傾向が強いです。両親もしくは片親が不在で、兄弟姉妹で協力して家計を切り盛りしたり、生活保護を受けるような貧しさを痛感している人の例も少なくありません。そして、その原因を社会や誰かのせいにして愚痴をこぼす人もいます。けれど、残念ながら自分自身で自分を被害者に仕立てている間は、一向に生活は改善されません。
仮に原因が事故や不可抗力的なもので他人の同情を買うものであったとしても、本人が現状を拒否している限りは本当に解決すべき問題点からも自分を遠ざけてしまっています。そのため手をつけるべき場所が見えていないか間違っており、いつまでも苦しみの尾を引きずったまま、恨みつらみといった負の感情ばかりが溜まってしまうことになります。背負っているものが何であれ、最終的には辛いことを承知で自分から向き合うしかありません。そうすることでのみ、硬直していた事態が良い方向へ動き出すのですから。
裏卦ならびにパートナーとなる卦は沢風大過。視点反転しても山雷頤は山雷頤ですが(これは沢風大過も同じ)、卦は常に対の相手がいます。大過は、頤での摂取過剰によりオーバーフロー(容量超過)寸前になっている状態を示す卦です。請け負いすぎたために弊害が発生してしまった、と言ってもいいです。暴飲暴食で胃もたれし、胸焼けや消化不良に陥っているイメージ。あるいは、狭い家に所狭しといろんな物が散乱している情景。PCで言えば、あまり取捨選択もせず調子に乗ってダウンロードやインストールを繰り返した結果、データ量がメモリーを圧迫し、CPUに多大な負荷をかけてしまっているような状態です。もう、こうなったら大掃除しかありません。大過の次は坎ですから、処理が追いつかなくなって思考停止になる前に片付ける必要があります。
対称性は渙。頤が大畜での訓練の結果であったように、渙も兌での具体的成果が方々に流れていく様子を表わしています。離散の象意。頤がダウンロードならば、渙はアップロード。一箇所に集中化していたものを展開する。利を独占せずに分かち合う。情報や人の心が分散する状況。多くは、頤で増えすぎたものや兌で講演や歓談しに来た人々を散らす、または散っていく現象が起きます。空気を読む才能というのか、切り替えの早さとか割り切りの良さがあります。
屯・晋から25番目で、3巡目の7。2巡目の7の16では、それまで自分の内面に沈んで暗躍していた要素に捉えられたことで自分らしさを失ってしまいました。この25では21のピークを迎えて収束してゆく中、次のステップに進むための最終準備としての自己確認を行います。これまでの道程を振り返り、全体の動向をまとめて後始末をつける必要性が出てきます。そこで自分にとって大切なものや親しい人々が本当に求めているものを見定める。そして、築いてきたこと・長期にわたって育んできたこと・追求してきたことのコア部分をバッグに入れて、次の大過・節に向かうのです。
追記。序卦の繋がり、その連続性を考えた場合、大畜と頤の間には无妄があり、无妄と大畜の間には頤があります。乾(天)震(雷)艮(山)は全て陽卦ですから、无妄から頤に至る流れには強い陽気が充満しているとの見方もできるかもしれません。なお、こうした関係性は他にもう一つあります。離為火〜雷風恒です。離と咸の間には恒が、咸と恒の間には離が繋ぎとして入っています。ただし、通常の循環の流れにおいては乾坤坎離の四純卦は透過されるため、この場合は特殊ですが。一般には大過から咸へと進み、その間を同人が繋ぎます。
◇初九
大畜での蓄積を元手に新規の展開(无妄)を滋養できるまでになると、今度は頤養の道が始まります。養うというと「誰を?」となりますが、まずは「自分自身を」というのが初九です。頤卦は初九と上九の両端が陽で内部が陰ですから、必然的にどの爻がどの爻を担当するかが決まってきます。初九は比爻の六二と応爻の六四を、同じく上九は六五と六三の面倒を看ます。ところが、この初九は未だ自分自身にさえ自信がないのに誰かを養うなど到底できるとは思えない、という状態(心境)にあります。確かに陽気としての可能性は十分に秘めており本人も自覚しているのですが、それを表立って使うだけの実力が自分にはないと思っているのです。動爻後の変卦は剥初六で「足元から脅かされる」象意。頤では意味が反転して「足元(基礎となる力)が頼りない」という状況。初九自身は、透徹した思考力と優れた才能の持ち主なのですが、それを周りが理解してくれない、というより自分自身でさえ実生活(仕事)の中で生かすことに躊躇いがあり、なかなか本題に入れずに虚しい時間を過ごしてしまっていると感じています。もちろん、そうした余剰時間も意義あるものを生み出す素地なのですが、そのことに気が付けずに悲観したり、充実した生活をしている人々を羨みがちです。しかし、もしこの卦爻を得た人が五体満足で五感も正常であるならば、まずはそれだけでも感謝すべきです。というのは、この爻では視覚障害者(盲人)に関する事例が多く、何の肉体的ハンデも負っていない人間が弱音を吐いているわけにはいかないからです。
◆六二
六二は複雑な立場です。陰位陰爻の正位で初九という比爻もありますが、そもそも自立することを考えず、さりとて初九に依存し過ぎるのもどうかと思うし・・・という状態。理屈上は身近な陽爻である初九に養われるのを道理としつつも、初九が頼りない間は寄り掛かるわけにもいかず、さらに五爻とも不応とくれば、つい権勢ある上九になびきがちですが、いかんせん遠い。土台が脆い上に立ち位置が曖昧では、なかなか心も落ち着きません。変卦の損九二は「損せずしてこれを益す」とあり、あえて助けようとしないことが逆に相手のためになる(自立を促す)という奥深い方法論です。翻って頤の六二では「相手の助けを受けることで自分を養う」となります。卦の形から初爻を現在の自分の底力と見れば、上爻は「こうなりたい」と憧れる理想の状態です。しかし今はまだ二爻の位置。つい急いて上爻に向かいたくなりますが、水準が違いすぎて現実的でない場合があります。まずは一般的な安定を得ることです。また、ここでいう「助け」というのは人的なサポートや金銭的援助という意味に限らず、例えば海外からの輸入品のように通常の生活圏内では手に入らない物品を他から取り入れるということもあります。ただし裏を返すと、自身の内的な資質を育てることを放棄、もしくは怠ったり、家族や友人などの大切な人を犠牲にする恐れもあるので注意して下さい。周りの人とは異なる特殊なものに囲まれてハイブリッドに生きるのも意義あることですが、それによって自らの立脚点を見失っては元も子もないのですから。支えてくれる人達に感謝しましょう。
◆六三
内卦震の上辺、頤卦における震はガクガク動く下顎に象徴されます。その上部に当たる六三は、いわば舌べらや下側の歯といったところでしょうか。少し噬[口盍]の概念と似ていますが、噬[口盍]では直ぐ上の四爻が陽で、頤では陰という違いがあります。噛み砕いて栄養になるようなものがないため欲求不満状態です。原文に「十年用いるなかれ」とあるほど、長期に亘る不毛となる場合も現実にあります。一応この十年というのは比喩でしょうが、そのままの例もなくはありません。経済的・養育的理由などで施設に10年ほど入れられ、その後、母親が家出&離婚したのを受けて、自らが母親代わりとして家事をこなすことになった女性がいます。元々六三には上九という正応がいますが、それよりも近い距離に初九もおり、二重に養いを受けようという卑しさをもっていたり、無駄に知識があるばかりに周囲の人々をやり込めて自分の利を貪ろうとする人もいます。しかし「天網恢恢粗にして漏らさず」というように、天の理は頤養の道に悖る不義理な行いを見逃しません。こうした態度は報われないばかりか、今後の自らの未来を潰すことにもなりかねません。改心して自分の生活を見直す必要があります。ただし、いかに清貧な暮らしを志しても現実面での隙があると、それを突くような事態が起きて苦境に陥るので、油断しないように心掛けて下さい。三爻と四爻は互卦坤の中心的な存在であり、日々の生活を蔑ろにしたり、身内や知人の情に絆されていると、因縁的にそれらが障害となって降りかかってきます。自分で蒔いた種は自分で刈り取らなければならないのが、この世の摂理なのですから。
◆六四
上卦艮に入り、下卦震のようには軽挙妄動しなくなってきます。原文に「虎視眈々」(鋭い眼つきで獲物を狙い定める)とあるように、なかなかにストイックな性分です。時間の使い方(スケジュール)や自己コントロールの仕方、物事の扱い方等に関して、つい入れ込んで過剰になりがちです。結果、無理のし過ぎで体を壊したり、精神的余裕の確保と無駄を省くこととの狭間で苦しむ様も見られます。自分に厳しく根を詰めすぎる傾向を自覚して、正応の初九(身内など)にサポートしてもらう形を取ると良いでしょう。六四の人は市民感覚があって基本的に人々からの受けがいいので、支援を求めれば助けてくれる人が必ずいるはずです。それを踏まえて、周りの人への感謝と社会への恩返のつもりで自分のしていることに取り組めば、満足度の高い成果は保障されているも同然です。努力家の上に謙虚であれば、誰しもがその魅力に惹き付けられることでしょう。この六四は市井の人間が世界に羽ばたく、または有名になるようなキッカケの時期でもあるので、必然的に生活を律しなければならない状況になることが多いと思われます。また、時期的にのんびり遊んではいられない場合もあります。人によっては独自のリズム感というか、あまり真似のできない生活方針を持っていますが、反ってそれが奏功しているようです。なお、六三にも書きましたが、互卦坤を形成する中心部であることから、目標と日々の生活との両立や近親者とのイザコザ等の問題が生じることがあります。しかし六三とは違って、六四には自らを律し他者と恩恵を分かち合う精神があるので、やがて良い解決を得ることができるでしょう。
◆六五
艮の中位が変化すると巽。物腰が柔らかくなるか、信念が揺らいで行動があやふやになるかというところですが、ここでは自分に十分な力(養成力)がないことを自覚しているため、より信頼の置ける上九の方針に従う形を採ります。そのほうが全体の利益(変卦は風雷益)になると考えるからです。益の九五では逆に、頑迷な行動が民意の反発を買って覆されるような破目になりやすく、続く上九では監視的に外部を攻撃するようになったり、その仇で批判にあったり、変革を強く要求されることも出てきます。両者で流れが異なることが見て取れます。この頤の六五においては陰としての柔軟性を上手く発揮することを心がけ、一人で無理強いしないことが大切です。実行力の点では陽である上九に劣りますが、人を惹き付ける求心力という意味では六五の存在価値は大きいので、この特性をぜひ活用しましょう。六五は衆陰(頤卦の内部の陰)のトップの位置にあるので、人々の意向を理解し、適切にまとめる資質を持っています。例えば、もし社会や関わる状況に何らかの問題があれば、署名活動のような形で多くの人達の意見を束ねて上申するというのも一つの方法です。六五一人の力では動かしがたいことでも、皆の力を合わせれば大きな変化をもたらすことも夢ではありません。この働きが上(上九)に通じれば、より現実的な行動や整備された力の中で、集めた意志を実現させていくことが可能になります。
◇上九
頤卦は対の大過と同様に視点反転しても頤になるため、自己洞察が重要な意義を持ちます。頤の最終段階(上爻)はウロボロス=円環状の蛇のように初爻と結びつきます。この位置は引き際でありながら、また地雷復としての重要な一歩を意味しています。首尾一貫という言葉がある通り、始めの目的と終わりの結果を一致させることが課題です。自分自身の目的、または六五が代表で持ち込んだ皆の意見に価値を見出したならば、それを終いまでやり遂げることを意識しましょう。次の大過の兆しで責任は重くなっていきますが、その役目に耐えられるだけの力量と信頼もあるはずですから、自分としての有終の美を飾ることを目指しつつ、引き継ぐ人にもしっかりと志を渡しましょう。渡された人は大過としての「柱」の道を歩むことになりますが、それはその人の道です。あなたはあなたで、この頤卦の卦義に沿って、目的を果たすことを意識してください。というのも、頤の上九が上顎に象徴されるように、この人の信念が揺らぐとそれに続く人達の意志も不安定になってしまうからです。それは情報の浸透性を低下させ、トップとボトム間および中間層とのスムーズな意志伝達を阻害します。結果として指示間違いや理解不足による人為ミス、中長期に亘る混乱などを引き起こします。こうしたことを防ぐには上九が揺らいではならないのです。経営方針や目的をコロコロ変えたり、空理空論を追いかけたり、経営陣の首を挿げ替えてばかりでは、やがてその会社は社員にも見限られて立ち行かなくなるものです。そしてそれはより大きなスケールの組織や国でも同じことだと思います。
※卦意は2009-09-03にUP。爻意は2011-07-28に追加更新。