剥は剥落、剥奪の意味。賁での装飾が行き過ぎた結果、仮面を剥がされ正体(実態・素性)が明らかにされてしまいます。自分を飾り立てていた後ろ盾への寄る辺を失い、裸一貫で別の場所へ追い立てられる状況。プライドや立場が崩壊するような出来事を招くなど。上爻に残る唯一の陽(果実)をもぎ取ろうとする五陰という絵柄なので、状況的には末期(切羽詰った)状態であることが多いです。やむにやまれぬ事情で家を出るハメになったり、環境を変えざるを得なくなったりします。この上九の果実を木守柿(餌の少ない冬の時期に鳥達のために一つだけ実を残しておく、または来年も恵が得られるようにと祈る風習)に見立ててもいいと思います。
視点が反転する綜卦は復で、陽が初爻に顔を出した状態です。五陰の世界に新規参入し、その中で活動をし始めます。記憶を回顧したり、過去の経験を再起させる傾向があります。リスタートの象意。比較すると、剥は高い所にある果実をもぎ取ろうとしており、「もはやこれまでか」というような状況。一方の復は地上に顔を出そうと体を震わせている芽を形象しており、万事これからという内容です。どちらも以前に話した十二消長(消息)卦の仲間です。剥は剥ぎ取られることで坤となり、その坤から一歩だけ陽が進攻すると復になります。一陽来復という表現が時々使われますね。
次いで、陰陽反転する裏卦(錯卦)は夬。これも十二消長卦のメンバーです。またそれだけでなく、実は剥と夬は統合することで補完し合う関係でもあります。この補完し合う関係については、情報量が多くなって煩雑化するのを避けるために特に触れてきませんでしたが、重要な視点の一つです。例えば、先の賁であれば[女后]、次の復であれば益が補完関係です。ただし、この関係は互いの性質にとっては試練を表すことが多く、人生上の困難を克服するための努力目標、すなわち克己心を発揮すべき領域を指摘する内容になっています。補完関係についても、いずれ全体を通して整理するつもりでいますので、それまで待って頂きたいと思います。
話を戻して、剥と夬の関係について考えてみましょう。夬は決断、決行、決壊を意味する卦です。五陽が上位にある陰爻を凌駕(圧倒、超絶)して乾へと向かう流れにあります。一方、剥は五陰が陽を剥ぐので坤になります。乾坤は一般に言われているような天とか大地というような抽象概念を云々するより、ある人や物事の本来的な性質が最も純粋な形で示される卦と考えた方がいいと思います。枝葉末節を削がれた幹または芯のみの状態になる。実のところ、乾も坤も純陽・純陰としての単一な状態なので、他の卦のようなバリエーションがありません。本性や本質がクローズアップされることで、本来の目的や役割に直面することがあります。人によって開眼したり、逆に今の自分との相違を痛感してショックを受けたりしますが、与えられるベースは同じです。
この根源的な状態に向かう前段階として、陰陽の各側に剥と夬が置かれているわけですが、しぶとく残った陰なり陽を蹴散らそうとするために必然的に思い切った行動を伴います。陰と陽でベクトルは逆ですが、行われる事柄は同一内容です。夬の場合は、危険を承知で勇気を振り絞って行動したり、感情に押し流されて衝動的に飛び出したり、物事に整理を付けるために全体の流れを考えながらテキパキと采配を振るったりします。剥の場合は、主に剥がされる立場としてその場に居られなくなるという現象が起きやすく、事態の急展開に早急な対処を求められることが多いです。いずれも無理をして体や神経を酷使する傾向があるので、健康や精神状態と相談しながら事を進めたほうがいいかもしれません。
シンメトリー関係は豊。豊かさ(大量・山盛り)を意味する字義で、現実的な面での最強とか最大を示唆しています。ただ、剥との対称性を考えると、怖いもの知らずの傲慢さという風に捉えたほうがよさそうにも思えます。剥も豊も屯・晋から21番目の卦で、3巡目の3です。1巡目の3は対外的に自己表現する姿勢を表し、2巡目の3すなわち12では一つの体系の中に自分を投げ入れて精神を丸ごと浸します。そして、この3巡目の3である21では再び外へ向かって自己主張しますが、そこには20という何でもあり的な資質が基盤にあるので、「どんなこともこなしてみせる」という剛毅さがあります。何にでも頭角を現すことができたり、取り組んだことには必ず優秀さを示さなくてはならないという高いプライドの持ち主であったりします。
共に易の流れ全体における最大級の山場に相当しますが、ここでの最大というのは社会的・物質的な、およそ他者と比較可能な力に関するものです。現実における高い権力を求めたり、交際範囲を際限なく広げたり、休息もそこそこに極限的なまでに忙しく働きまくったり…と、稼働範囲の限界にまで挑戦する傾向が強く出ます。しかも、自分自身だけでなく周りを巻き込んで無理強いさせがちなので、反動で心身の調子を崩してしまうケースが珍しくありません。活動過多の最中、突然の怪我や病気などで思いがけず活動停止命令を食らう人もいます。ハイリスク・ハイリターン的な趣があって、剥も豊もある種の恐ろしさとか危うさという点ではトップクラスです。
世間的に有能さや突出した力を発揮したい欲求があるのですが、負けず嫌いが行き過ぎて意固地(強情)になってしまう性質は考えものです。何かにつけ過剰さが浮き彫りになるため、結果的に波乱万丈な生き方になりやすいでしょう。また、豊かさに依存して精神的に甘えてしまうケースも少なからず見られます。現代の先進国では、むしろこちらの比率が高まっているかもしれません。基本的な衣食住が満たされ、経済的に不自由なく生活できる環境にいる人の場合、自分を高めることを怠りやすく、ハングリーさが失われてしまうからです。しかし、庇護が永久に続くわけもなく、いずれは自立してやっていかなくてはなりません。
剥の次が復、豊の次が旅とあるのは、これらが「現状とは違うやり方で」・「ここではない場所で」生きていくことを意味しているからです。豊でオーバーワークになればどこかで休養や安息が必要になるし、あるいはいつまでも親の脛をかじってはいられませんから、やがて孤独な「旅」に出る必要に迫られます。また、剥として追われれば別の場所で出直す(立て直す)より他ありません。豊・旅も剥・復も互いに凸凹さが明確に表れた関係になっています。
◆初六
賁の上九では個としての透明性を追求しました。ところが、その性質が度を越すと周囲との調和が取れなくなってその場に居辛くなってきます。賁の極致を訟えることで剥が生じているので、もはや周りと調和して生きることは難しい状況です。剥の内実を表す互卦は坤であり、次第に陰が勢力を伸ばしていく情勢にあります。ただし今はまだ初爻の段階ということで、追い出されるよりも危険や問題を察知したことで自ら環境を変えようとする傾向が見られます。さて、どんなに優れた人物が組織する環境でも、影で何か善からぬ企みをしている人はいるものです。今はそうした危惧すべき悪巧みや首謀者が明示的に顕れる時ではないのですが、ちょっとした出来事によりその兆しや異変に気が付き、将来のための対策を講じるべく独自に動き出します。今はまだ自分の力を失ってはいないので、呼びかければ協力してくれる仲間も近くにいるはずです。そうした人々と手を携えて問題の解決に向かったり(この場合は戦いや係争となりやすい)、それが難しければ危険そのものからの脱却、もしくは注意しながら事態の行方を遠巻きに観察することになるでしょう。実際に引越しや部屋を移動する人もいましたが、剥の時期の移動は卦義からも推奨されず、その後の問題に繋がりやすいので注意が必要です。それらの動機とか前提を思うに、当事者側に既に何らかの問題が内在していて、このことが剥の初六として足元を削られる因縁になっているようです。
◆六二
初六と同じく、六二も応爻がなく周りには陰ばかりで危機感は募る一方。初六の場合は陽位陰爻の不正位で、忍び寄る危険(油断している内に知らず知らず発生しやすい)を察知することさえ困難な場合もあるのですが、この六二では中正ということもあり、漠然とではあっても剥の侵攻を自覚しています。しかも何が問題なのか、どうすれば崩壊の影響を最小限に抑えられるのかまで分かっていることもあります。ただ、それを実行するには勇気がいるし、成し遂げるには大変な根気と苦労を要します。もっとも、そうせざるを得ない状況なので四の五の言ってられませんが。目標が明確に定まっているのなら、できる限り迅速に行動することです。でなければ、狼狽している内に事態は深刻さを増し、行動に選択の余地がなくなって要求または指示されるままに特定のことしかできなくなります。今ならばまだ自分の意志で状況に対処することができるので、後悔したくなければ、多少の痛みは覚悟の上で自発的に転換しましょう。また、この時期は関わる相手(身近な人の場合が多い)とのコミュニケーションが問題の鍵を握っています。誰の言葉に耳を貸すか――誰と想いが通じ合い、誰とスレ違うかで、どのように状況が変わるかが決まると言っても過言ではありません。いずれにせよ、もう現在の立場・生活に居座り続けることは無理なので、果敢に運命と向き合うしかありません。意識を強く持ちましょう。
◆六三
易経の中で剥は寝台の崩壊に譬えられています。初六では足、六二では弁(寝台との接合部)、六三では寝台そのものにまで侵食が進み、次の六四でベッドで寝ている人間の肌にまで危険が及びます。ところが、六五になると今度は逆に伸びてきた陰自体が自重により軋み始めます。内部崩壊の危険が出てくるわけです。そこで本末転倒ながらも隣接する上九の陽を頼ってなんとかしてもらおうと歩み寄ります。一方の上九は、最後の陽(陰の虚に対する実)としてのサバイバルの極みにあります。そして本人自身も苦しむ中、助力を求めてきた陰爻に対しても導こうとします。この六三も六五の状況下で救いを求めることになる陰の構成員で、不中不正ながらも上九と応じていますから、直接のアドバイスなり指導を受けるチャンスがあります。その機会を生かして自分の本分を思い出し、悪事との手を切ったり過失を未然に防いで危険度を軽減させることができれば、結果的に大きな痛手を負わずに済みます。当然、それまで行動を共にしていた者達を裏切れば対立もしますが、鎖を断ち切るくらいの思い切った決断が必要です。ただ、その時に自分の力だけでは手に負えないことも出てくるので、信頼できる相手からの助言を素直に聞き入れたり、自力でどうにかできるようになるまでは力を借りるなど、適切に導いてもらうことが大切です。つまらないプライドは捨てて、助力を願えないか話を切り出してみましょう。
◆六四
山地剥の中で最も警戒が促される爻です。陰位陰爻の正位ですが中ならず、応爻の初六も自身の身辺警護や状況把握に動き出したばかりの状態です。たとえ周りが危険真っ只中の六四を助け出そうとしても、相当の手練れでもなければ奮闘空しく終わりがちです。先の六三では爻が変じると艮九三で、相手を保護したり身の心配をする側です。それが逆意味になる剥六三では保護・心配される側としての導きを受けます。そして、この六四は変爻すると晋九四。晋では利権を狙う大ネズミのような人物が登場しますが、翻った剥六四は、その当事者たる本人がキーパーソンとして狙われたり(原文の膚=肌)、その人が持っている情報・物品がターゲットにされる傾向が見られます。専門の技術者、稀に見る特殊能力者、名家の一人娘、超レアな宝石を肌身離さず身に着けている人、非売品の持ち主、その人だけが知り得る暗号鍵、重要な記録、利益の絡む秘密情報、内部告発の証拠品…等々。そうした影響力の大きい事柄(ある人たちにとっては死活問題にもなる)に関係する形で、この六四の状況は深みを増していきます。身分を隠して生きる、迫る危険や面倒事から逃げまくる、または果敢に問題の打開へと動くなど、各々の事情から環境や立場を変える人が多いです。相手に取り入るために体を売る人も。協力者がいなければ単独で行動することになりますが、家族や深い絆のある仲間達がいる場合は一緒になって転地するケースもあります。
◆六五
重なり合った陰気のトップに位置する六五。不当位で応爻も陰陽が合わず、始めは抵抗を受けやすい状況です。陽爻のお株(常識や固定観念などの比喩)を剥奪しようと駆け上がってきたのに、いざここまで来て分かったことは“結局、根っこは変えられないのか・・・”という失望感と苛立ち、そして自身に対する空しさだけ。でも、諦めないで下さい。まだ希望はあります。既に六三の時点で、自身が陰でありながらも陰が伸張することに一抹の不安を抱き、正応の上九の指導を受けました。この六五も幸い上九と正比の関係で、外卦の中位にあって陰としてのしなやかさを併せ持っています。変卦は観で、その九五は天人相応を示す内容です。観では自身の生き方を省察することで周りの出来事との相関を見ました。一方、この剥六五では人心(衆陰)を結束させることが、人としての目的と天の法則とを結びつけることを見ます。加えて綜卦の復も考えてみると、六二は、間違いに気がつき早めに引き返した初九に善導されて正しい道に帰ってきます。綜卦は視点が反転しているため剥の六五は上九に従う形になり、さらに下位の陰爻を引き込もうと働きかけます。剥という状況で切羽詰っているので何をどうしたいかが明確になっていることが多い上、信じやすさ・すがる気持ち・アンテナを広げる等が出てくるので、何か「これだ!」とピンと来るものがあると非常に感化されやすい時です。また、自分の信じるやり方を他の人にも貫き通します。その方法論が的を射たものであるならば、その状況における特効薬的なものになる可能性は高いでしょう。
◇上九
剥卦で唯一の陽爻。無位の地で不当位ですが、陽としての存在意義を自覚していれば行動に迷いはないはず。…と言いたいところですが、今は陰爻に追い立てられてきた生き残りとしての身。非常に危険な状態であることは当人も重々承知していると思います。しかし、陰の襲来の極限にあるにも関わらず、それに屈せずに自分の信念を押し通して頑固に拒む傾向があります。寡黙な人で自分の置かれた事情を周りにきちんと説明しなくて誤解を与えてしまう人もいれば、家族など身近な人にさえ行動原理を理解してもらえない人もいました。ただ、そうした意思のすれ違いも、“体を張って命がけで相手を守る”ぐらいの気持ちで向き合えば解消されなくはありません。なお、原文ではこの上九は「果実」に象徴されるわけですが、色々な意味に解釈が可能です。それぞれの状況で臨機応変に考えればよいと思いますが、幾つか例示すると、事の真相を知る人(証人)、答えに辿り着くための知識や情報、知能(創造力や想像力)、理性、保管書類、造反して独自の信念で活動している人、目をつけた一区画の土地、過去の栄光、代々受け継がれてきた技術の継承者、取り柄、既得権益、遺言(託された想い)、事態の鍵を握るキーアイテム、設計図、アーキタイプ(元型)、最後の切り札(砦)、他の全てがなくなっても“これ”さえあれば復元できるというもの…等です。特に最後の“これ”というのが、綜卦の復初九に繋がっている概念です。それらが何であれ、六五で定めし方向性と天の意思とが食い違ってなければ、愛すべき大切なものは守れるはずです。
※卦意は2009-09-01にUP。爻意は2011-6-3に追加更新。