観は仰ぎ見る、静観の意味。物事を冷静に、または注視して観察する状態を言います。臨で期待の新星と目されて育った人が、今度は後輩から尊敬の眼差しで仰ぎ見られるようになった、という感じ。上卦巽は世の中に吹き渡る情報の風。それを下卦坤としての現実的立ち位置から分析・観察する姿勢。岡目八目。自分を虚にすることで周囲が今まで以上に見えたり、感じ取れるようになる。また、自分の考えた内容や広めた事柄が坤の一般大衆(身近な人々など)にどのように伝わっているのかを省察することでもあります。もし、この洞察によって不適切なところがあれば、それは次の火雷噬[口盍]にて果断されていきます。
綜卦である臨と比較してみましょう。一言で言えば、臨はワクワクする気持ち。望みがある状態とでも言えばいいでしょうか。もちろん、希望があるからといって今が幸せとは限りません。先の卦が蠱ですから、辛い状況であることが多いかもしれません。しかし、臨は焼け野原からでも立ち直れるような強さがあるので簡単にはめげません。一方、観は興奮する感情を抑制して冷静さを保とうとする卦です。気持ちを静めて精神統一したり集中する。数学の難問を解いている人とか研究に没頭している人をイメージしてもよいかもしれません。現実的な力強さや行動力は控えめですが、状況や特徴を的確に判断する才能は並外れています。
観は精神方面の事象に向き、臨は現実的・物質的方面に発展が望めます。適性を誤ると葛藤の餌食になってしまうので注意しましょう。それぞれの特性を上手に生かせれば、時代や社会(または国・世界)に影響を与えるほどの活躍も可能です。時間性と空間性=時空に関係する卦の一つだと思います。なお、どの卦もそうですが爻の位置によって卦義の程度が異なります。観の場合は観察というのが基本的な姿勢ですが、初爻変では観察が局部化した監視的な様相になりやすく、爻位が上がるにつれて範囲や程度が変化します。下卦では自分の身近な所(坤)に視野が限られていますが、六四では観光で国の光を観るなど上卦巽に入ると意識が拡大して、より広範なものの見方を獲得していき、最終的に上爻変で自分の経験や立場を次代に引き継がせるために整理することになります。
さて、観の陰陽が変わると大壮です。観が静観分析・思索・研究・理論が軸であるのに対し、ベクトルが逆転した大壮は内なるエネルギー(乾)を外へ放出・発散(震)することで、実際的な体験の中で実感を得ようとします。いわば肉体派・行動派の卦です。理屈や理論に走りがちな観に実証的な視点を与えることができるのですが、実際には、学問として追求する研究者と実践家の違いを示すものでもあるので、そこには厚い壁があります。例えば陸上競技で、より早く走るためにはどうしたらいいのか、というテーマに対して、体の構造を研究して理論的に突き詰める人と(理論が先)、実際に走りながら試行錯誤する人(実技が先)の違いとでも言えばいいでしょうか。本当はどちらも補完関係にあるわけですが、取り組む姿勢としての偏向性が個々で異なっているわけです。
シンメトリー関係は艮。艮も観も、屯・晋から18番目で、かつ二巡目の「9」。本来の「9」が自らが抱く夢や理想に邁進してゆくのに対し、二巡目では流れが反転して自己の内部に向けて、特に自分の生きる生活圏や属する環境内でヴィジョンを追求していこうとします。社会で自分の役割を果たしつつ、貢献していくことで内的な喜びを得る数。共に、学術関係の研究や精神的な価値観を掘り下げることに資質がありますが、あまり広範囲をカバーできるほどでもありません。様々な分野に頭を突っ込むのではなく、スペシャリスト(専門家)としての道を行くといいと思います。
観は臨でフィードバックされた内容を元に分析を加えることで、蠱で入ってきた異物や違和感を自分なりに取り込むことに成功します。しかし、それはまだ工夫の段階なので、全面的に消化・吸収できたわけではありません。少しずつチェック(観)して、よく噛んで(噬[口盍])、消化してゆく。そしていずれは、自分の血肉として表現(賁)できるようになっていきます。対する艮は震でもたらされた影響の結果や余韻を整理していきます。鼎において人間関係や環境の変化が生じると、震でいろんな種類のショックを受けますが、この艮で落ち着きを取り戻そうとするわけです。心を乱さないように努力する。周りがゴタゴタと動いている中で、山のように静止することで物事の仕組み、道理、体系などを把握するのです。日常的には異動や引越し等による生活の変化をイメージすると分かりやすいでしょう。
観・艮双方とも技巧に長け、熟達すると比類ないスペシャリティを発揮することが多いです。しかしその分、視野と許容性が狭まる恐れもあります。一言で言えば狭量になりやすい。とはいえ、その欠点を補って余りあるだけの専門性の持ち主なので、自分に合った事柄を追求している限りは、その道のプロやアドバイザーとして活躍することができるでしょう。周囲に翻弄されず、自分を見失わないように自己管理能力を磨きましょう。
◆初六
物の見方が人それぞれであるように、同一人物にあっても成長の段階に応じて変わっていくものです。時には異質とも思える新しい影響が入り込んでくることもあります。初六では「童観」とあるように童=子供の視点、幼稚な見方、無邪気な考えなどを示します。また子供を含め、仲間や個人の管轄および所有物を守るために周りを警戒したりもします。子供がおもちゃの奪い合いをするように。大人や周囲の人間から見ればくだらなく思えても、当の本人たちにとっては無視できない問題なのです。今は坤に象徴される身近な生活を保全しようというエゴの働きやすい状況でもあり、社会や世界に対する見方が狭量になりがちです。打算で動いたり、排他性から敵味方を分ける傾向があるので、相手によっては友好的な人間関係を築くことは難しいかもしれません。時には何かを護るために戦うこともあるでしょう。初六は陽位陰爻で不正位、応爻の六四自身は正位ですが陰爻同士では睦み合えません。また、直近の六二とも陰陽が合わず、陽爻の九五とも遠すぎて心を開ける相手が見つかりづらい状況です。今求められていることや自分の行為が良心に基づくものかどうか、実際に必要なことなのかを考えることなく、ただその場の感情や状況に流されているだけという場合もあるでしょう。味方や協力者を得るには、もう少し冷静にならなくてはなりません。
◆六二
初六では子供もしくは幼い者の視点がポイントでしたが、この六二ではその初六を保護しようとする母親(的役割がある人)がキーパーソンになります。六二自身は正位ですが、周囲は陰爻ばかりで心もとなく不本意な状況になりがちです。ただ幸いなことに上位の九五と応じており、助けがあれば素直に受け入れつつ、自らも努力を続けていけば次第に周りとの関わり方に良い変化が生まれてくるはずです。今は限定された環境や状況に縁がある時で自分の思い通りにはなりにくいのですが、そうした制約された関係の中での気づきや学びが試されていると考えると良いのではないでしょうか。今まで得てきた事例を見る限りでは、男性よりも女性(年齢に関わらず)が状況の鍵を握っていることが多いようです。多少偏屈か閉鎖的な面が出ることもありますが、意志や性格の強い人物です。また、爻辞には「家庭を守る婦女」という意味の言葉が入っており、まさしくそういう現実に直面する傾向があります。家族や広い意味での同族意識、愛する人、自分が責任を負う者達、達成したい目的など、その人にとっての大事なものを守るために奔走する。逆に言えば、自らのテリトリーに対する意識が強いことを物語っているとも言えます。比較的狭い、もしくは緊密な繋がりの中で状況が展開するケースが多く見られるので、その中で果たせそうな役割を見定めて行動すると良さそうです。
◆六三
初六・六二と、次第に観察の対象が自己の外側から内側へと収束して来ました。この六三ではそれら内外の状況と生きてきた過程を踏まえて、これから自分が進むべき道を見定めようとしています。同時に自らの適性や特技、および文化的背景についても把握することになりやすいでしょう。無鉄砲に動いて傷を追いがちな三爻にあって、静の意義を知る価値ある時です。長年に亘り自身の中に詰め込んできた要素を――感情や記憶、過去の経験、成果なども含めて開放してみましょう。頭も心もスッキリして色々と整理が付きやすくなりますし、今後の生き方への決心をも助けてくれるはずです。ただ、今は自分自身に対する客観性が必要な時なので、自慢したい武勇伝や業績、得意技などがあっても、人に見せびらかしたり自説を押し付けたりしない方がいいと思います。本人にとっては有意義でも、他人から見れば興味の湧かないことかもしれません。もっとも、それが逆に明確な気づきに繋がることもあるため良い悪いの話ではありませんが。今のテーマは、自身(当事者や現状)を客観的に分析することで能力適性や興味の方向性(対象)を理解し、それらをどう未来へ繋げていくか。そのためにも、これまで蓄積してきた事柄を明るみに出してチェックすることが求められます。得意不得意を再認識したり、思わぬ事実に少なからずショックを受けるかもしれませんが、一度それを把握しさえすれば扱い方も分かってくると思います。
◆六四
卦の上下内外を跨ぐ時、どの卦でも多少のギャップを経験します。今まで自分が想像していたこととの相違に突き当たり、見落としていた影が浮き彫りになってくるからです。この六四は陰位陰爻の正位で九五とも相性は良く、状況的に大局観を育む機会に恵まれやすいのですが、一方で立場の違いから初六に象徴される人々と本音で交わることができません。身分を隠して野に下り、世間の様子を眺めることはできても、純粋な意味での交流や理解は難しいかもしれません。それでも痛感する理想と現実の溝を埋めようと、この六四の人物は果敢に行動に出ます。思慮深い人ですが、かといって考え込むだけでは何も変わらないことを知っているからです。周りを見渡し、能力を見極め、今の自分にできることに直走っていく。その姿に感銘を受ける人も少なくないでしょうが、大切なのは誰かの評価を受けることではなく、その時にやるべきことを終いまで果たせるか、という点です。そしてそれを達成した先に、それまで自分が考えていた世界とは異なる光景を見ることになるのです。でも、そうした新しい視座に着くまでには大変な辛酸を舐めたり、痛み苦しみを味わうことが往々にしてあります。それも長い年月をかけてです。求める希望の光の前に立ちはだかる試練が、この六四の人の肩に重々と圧し掛かっています。にも関わらず、この人は使命感に支えられ、どこまでも困難に立ち向かっていくでしょう。
◇九五
内卦の九三においても「我が生を観る」という文言が出てきましたが、ここでの意味は単に自分の生活を振り返って将来に臨むということではなく、自らの徳と天命とその仕事の結果との天人相応を観じる、ということです。つまり、観卦における全体的状況の如何は、この九五の人物の働きに呼応している、という視点です。状況を映し出す鏡とも言えるかもしれません。それゆえに、この九五に相当する人間の動向は非常に象徴的であり、多くの人の生活を左右する重要な役割を担っています。「鶴の一声」で問題解決に乗り出す指導力、もし過失を犯したと分かれば深く反省して潔く改める(進退を決める)、そういう人物が求められるのではないかと思います。一個人としての保身や権益に固執するような者がトップに立てば、必ず国は衰退します。同様に、この卦爻を得た状況がどうであれ、自己洞察のできない人間が指揮を執ったならば剥となり、適切に事態を乗り切ることはできないでしょう。なお、この時期には新しい生き方への予兆が生まれてくることがありますが、まだ保守と革新との間で揺れやすく、スッパリと転換するのは難しいかもしれません。しかし、この時の決断は多くの人々の将来や環境の良否に関わる大切な内容でもあるため、責任は重大です。決して安易な方向に流されないように気を引き締めて掛かってください。いずれその決断によって、改めて天人相応の理を再認識することでしょう。
◇上九
観卦の最上位である上九は、個人的な事情(過去の行為の結果や今している仕事の成り行き)を非常に深いレベルで考査する姿が見られます。鏡を見るように自分を見つめる。考査・吟味・熟慮・追求…表現は難しいですが、行き場のない陰位陽爻の不正位にあって、一種の裁定を受けるような状況に立たされる傾向があるように思います。次の噬[口盍]の気を受け始めている影響からか、時に犯した罪に対する詰問にもなりますが、九五での反省が生きていれば失敗から学ぶことも多かったという真理に気が付くでしょう。そしてその経験を他の人に役立てることができるということにも。物事の内外の観察を通して、最終的に人は自らの内側の真実に思い至るのかもしれません。一途なまでに透徹した集中と、全てを開け放つ弛緩の先にある達観とでも言えばいいのか。ともかく、この体験によって一つの明確な区切りが訪れたことを実感するはずです。この意味をどう捉えるか、それが非常に重要であることは間違いありません。良きにつけ悪しきにつけ過去を取り消すことはできませんが、これまでの行いの集積として築かれる未来も、その実は今後の生き方次第で変化してゆく不確定なもの。観卦を抜けるこの期、一旦気持ちを切り替えて(心を入れ替えて)、新たなる道への出発を誓うといいのではないかと思います。
※大意は2009-08-30日に、爻意は2011-5-28日にUP