*雷地豫 / Enthusiasm


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16.雷地豫

豫は予(あらかじめ)と訓読みします。積み重ねてきたことが実を結び、花を咲かせた状態。現代的に言えば、潜在意識に自己暗示を掛け続けて、その成果が現象化してきた様子とか、集合意識に背中を押されて衝動的に行動してしまう様子などを象徴しています。先行投資の結果としての利益または損失。唯一の陽爻で豫の成卦主である九四は周囲の期待や応援によって勇気を得ます。陰陽反転した小畜が苦節何年という形で培ってゆくのに対し、豫は滋養してきたことが爆発的に開花する瞬間を捉えた卦とも言えます。英語で豫はenthusiasm(エンスージアズム)とされ、熱中とか熱意、熱望というほどの意味です。何かのイベントを控えている時に、「ああ早く当日にならないかな。楽しみで仕方ないや。もう待ちきれないよ!」などと言いますが、そういう心理状態を表しています。

また、先天的資質や予め身体に備わった感覚(五感および第六感)に関すること――色(光)・音・香・触・味・直感(ヒラメキ)などに縁の深い卦で、ある種の芸術性やインパクトのあるセンスの良さがあります。アーティストには歓迎される卦かもしれません。また、限界性に対する鋭い感覚が発達しやすく、危険を伴うギリギリのラインを見極めることができるようになってきます。先行性(見通し)を立てることで、今後どのような事態が起きるのかが読めてくるわけです。ある程度は、突っ込みすぎて失敗したというような経験もあったほうがいいはずですが、ひとたび適度を覚えれば意識的にも準備ができて安心感も出てきます。でも、あまり余裕をかましていると予想外の事態に陥った際に動揺します。例えば臨時の出費などが生じるかもしれないし、何もかも自分の考え通りに状況が進展するとは限らないからです。よく言うように「予定は未定」で、生まれた瞬間に細部まで運命(未来)が決まっているわけではないのと同じです。「天災は忘れた頃にやってくる」といいますが、それに近いです。

内卦の坤は暗在系(見えないところ)での溜めに関係しています。たとえば矢が放てる段階にまで弓を引き絞ってあるようなものです。いつでも発射できる用意ができている。スタンバイOK!というわけです。あるいは、PCのスタンバイモードやリモコンをイメージするのもいいと思います。本体の主電源を逐一ON/OFFするのではなく、リモコンでピピッと操作する。坤という下地(縁の下の力持ち)として、リモコンには電池、テレビには常に微小の待機電力が流れており、リモコンのボタンを押せば直ちに反応して目的の操作ができる。他には赤外線通信とか。集音機やパラボラアンテナのように九四に力が焦点化されて、そこから力が放出される。こういう仕組みと雷地豫とを結び付けて考えても面白いと思います。

先にも書いたように裏卦は小畜です。小畜は抑え留められる状況下で黙々と文徳(文章道徳という意味ですが、もっと広い意味で自分のやるべき仕事や才能)を磨くことに専心する必要性を説いていました。時代を先行する考えとか周囲に受け容れられにくい内容に関して、自分のできる範囲で煮詰めていく姿勢を表しています。いずれは世間に広めていける時も来るでしょうが、それを今か今かと期待しても仕方ありません。作家のシェルドン・コップは「自分が大切と思うことは、きっちりと準備をしてから始めたことがない」と述べています。とにかく今できることをする、という姿勢が小畜においては肝要です。乗り物での移動中や待機時間などに少しずつでも勉強したり、affirmation(アファメーション:肯定の言葉を自分に言い渡す自己啓発法)をするとか。こうした蓄積がやがては密雲を呼び寄せ、慈雨を降らせるのです。もっとも、その雨は自分の死後に訪れるかもしれませんし、気がつかない所で降るだけかもしれません。でも、確実にその成果は香り豊かな花(雷地豫)として咲き誇ることになるでしょう。

では今度は綜卦となる謙との関係を探ってみましょう。謙はその流れとして大有が前段階にあるので、相応の責任や立場上の職権などを持っているケースも少なくありません。特に九三とそれに応じる上六は顕著ですが、ある種のカリスマ性すら感じられます。しかし、基本は内卦艮としての堅実性と地道に生活を送っていく坤の庶民性にありますから、表立ったことには向かない性分です。無謀なことはせずにコツコツと真面目に働くタイプ。一方の豫は溜めた力を一気に放出するタイプなので、大穴狙いの一発屋というか、場を急激に盛り上げるパフォーマンス性があります。謙の場合、真面目さや控えめな精神ゆえに大勝負に出るには不安が強すぎるのですが、豫は周りの持ち上げやサポートがあると、俄然、意気込みが出てくる性分なのです。

対称関係は水風井。井は井戸のことで、地下に流れる水脈から生活に必要な水を汲み上げる作業を示す卦です。共同体におけるソース(源)を掘り出すことを象徴しています。対する豫は、積み上げてきたものの成果の発露、そしてその反響を楽しむ状況で、まるで井戸で汲み上げた水を飲んでいるような感じです。どちらにしても、自分個人や家系などのルーツ(脈・系譜・歴史)の力を受けて勝負に出たり、日々の生活に役立てようとする卦と言えると思います。存在の根源的な場所に手をかけて、そこから現状にない要素を引っ張ってこようとする働き。または、歴史に埋もれた真実に肉薄しようとする働き。それは陽に対する陰のように価値の反転をもたらすものです。未だかつて想像し得なかった展開や作用をもたらす可能性が高く、通常ならば危険ゾーンを踏み越えてまで近づこうとはしないことでも、この豫や井では鉱脈を掘り当てるかのように陰影に潜んだ領域に手を伸ばします。これによって恐怖を感じ、自分の限界を悟って無理をしなくなる人もいるでしょうし、禁忌を犯してでも新しい未来を探求することに意欲を燃やす人もいるでしょう。真の意味で影の要素の流入を現実に感じ取るのは蠱・鼎の時からですが、この豫・井ではその取っ掛かりを得ることになり、次の随・革で作用が明確化していきます。

◆初六

豫は前もって準備する、布石(布陣を敷く)といった、いわばソフトを動かすためのプログラムに似ています。これは物理的な作用にもなるし、感情や心理に影響を与えるものにもなります。例えばスーパーマーケットで購買欲を誘うような軽快なBGMや宣伝文句を流すというのも、その一種でしょう。さて、この初六は陽位陰爻で不正位、九四と応じているとは言っても、九四自体も陰位陽爻で不正位ですから、あまり好ましい関係ではありません。六二とも比せず、何かと九四との関係に拘泥し、へつらおうとしがちです。九四は豫卦における力の焦点であるため、これと接点のある初六は“虎の威を借る狐”のごとく権勢におもねる傾向が出てきます。ただ、九四に象徴されるものは人(上司や先生、名の通った知人)だけでなく、系譜、後ろ盾、マシン(装置)の性能、武器防具、戦略的計画、内外からもたらされるチャンスなど様々です。素の実力とは別に、何らかの増強要素に頼るか自慢するという構図が見て取れます。あたかも猫が甘い声で鳴きながら人間にエサをねだっているような状況です。原文で凶と明言されている通り、自分を誤魔化したり、外部の力に頼って自惚れているようでは、その結果も知れています。自己欺瞞を改め、本心を見つめる生き方が求められています。

◆六二

全ての卦爻には視点が反転した“対”があります。豫の場合は謙ですし、陰陽が反転すれば小畜です。豫の六二は謙の六五と、また小畜の九二と密接に関係しています。先の豫の初六は謙の上六と対で、原典では共に「鳴く」という表現が使われています。そして、小畜の初九は応爻の六四に引き留められて自ら正道に復す意味がありました。これらは視点(意味)および状況が入れ替わっているだけで、実は共通の軸を持っているのです。同様にして、謙の六五が九三の活動に方向性を与えているように、豫の六二も九四に力を焦点化するのに必要な処置を行います。九四は豫におけるホープですが、本来的には不正位であるため、陽としての現実的なパワーを発揮するには及び腰です。ところが、この六二を含めた陰爻による援護射撃があると俄然勇気を持てるのです。当然、後方支援に回る側の志気も重要なのは言うまでもありません。豫の状況化で力を集約するには、できるだけ単一的であることが望ましいので、目的に向かう強い流れを生み出すために邪魔者や反対勢力などの阻害要因を素早く排除したり、主張を揃えて仲間の気持ちを一つに纏め上げようとします。ここには、意味合いは逆ですが、小畜九二の「引きつれて戻す」作用が裏で働いていると考えることもできるのです。

◆六三

六三は陽位陰爻で位当たらず、上六とも不応です。九四とは比していますが、豫は構成上、九四への一点集中による爆発力を生み出すことで活気をもたらす卦ですから、いくら比しているとはいえ六三が九四を独占することはできません。それは六五にとっても同じです。気にかけている九四は皆のアイドル(ヒーロー/ヒロイン)のような存在なので、どれだけ個人として熱烈な思い入れがあっても、一介のファンやサポーターとしての域を超えてはならないのです。その意味では、この六三は九四を早くに見出した人であり、九四が世間に知られるにつれて嬉しさが強まる反面、何となく物悲しさを覚えてしまうという複雑な心境になりやすいのです。マネージャーとか大衆を煽る仕掛け人のような存在と言えるかも知れません。初期の段階では重要な役割を演じますが、一般化された頃には意義も萎んでいきます。そしてそこに至ると、例えば故人を偲んで様々な記憶を懐古するような、あるいは求めても手の届かない雲の上の存在になってしまった人のような寂しさを覚えるのです。これが行き過ぎると、六三は九四を羨み嫉妬し始め、時に欺き苦しめたり、悪知恵を働かせて利を攫おうとすることがあります。しかし、その行く末は惨めですから、早くに悔い改めなければなりません。

◇九四

豫卦唯一の陽爻で成卦主です。しかし不当位なために本人にとってはチャレンジの感が強い時です。状況や環境との不適合感を改善するために衆陰(仲間や家族など)を束ねて志気を上げたり、皆の期待を一身に背負って責を果たさなければならない立場です。誰かに代理を務めてもらうことはできません。当然プレッシャーも覚えますし、苦しかったり怖かったりするでしょう。それでも、どうしてもやり遂げなくてはならない理由と使命感に後押しされ、前向きに持てる全ての勇気を振り絞ることになるはずです。豫卦におけるハイライトの部位ですから、影響力の高いインパクトのあることをする傾向があります。しかし本人の力だけでは到底無理な状況である場合が多く、成功させるためには周囲の理解と応援が不可欠です。ここに九四に求められる資質・条件の最たるものとして“信頼を得るに足る人柄”を挙げることができます。たとえ強いとは言えなくても、それどころか弱さを自覚していても、やるべき時には心を決めて結果を出す。これができれば九四は英雄になれるでしょう。大事なものや大切な人々を守り抜くために勝利を求めているなら、今がその時です。この時ばかりは逃げ腰な自分を振り切り、積極的に正面から渡り合う気概を持って行動することです。

◆六五

陽位陰爻なれど上卦震の中位にあります。震は元来、激烈さを秘めた卦ですから、つい衝動的に行動してしまう癖があります。しかし、この六五も衆陰の一人として九四への力の結集にエントリーしている身なので、卦主として威厳を誇示することはできません。このことは綜卦の謙六五でも同じなのですが、謙は卦の特性上、自らを低くして謙遜できるためジレンマに陥ることなく九三を効果的に使えます。ところが豫の六五はそうではなく、内的な衝動が抑えられず、これ以上はダメだという限界性とか外的な拘束条件とのせめぎ合いで煩悶しやすいのです。対関係になる謙六二では、限られた条件下での生活に不平を言うどころか、自制心をもって主体的に没頭することで職人のような本物意識を身に纏います。逆に、この豫の六五では連帯を求められている時に好き勝手したい気持ちが起きるので、状況的に突発性が許されないと苛立ちを感じるのです。しかし卦の意義を理解しているだけに独走して周囲に迷惑をかけてしまうのも気が引けます。幸い、六五は中位にあるので無難にはやっていけるでしょう。それでも、時に心細さや抑圧を吹っ切るがごとく突然変異を起こすかもしれません。良く言えば、常軌を逸することで逆に真新しいフォームを手に入れる可能性も秘めている人です。

◆上六

類似関係の井と同様、豫にもその場に流れる根底の力と深い関わりがあります。共有意識が働く中で、井では発掘した価値を皆で活用することに意義を見出し、豫では目的に向けて結束しようとします。そしてその基底には種々の“重み”が眠っています。それは生死、遺伝、子孫、遺物、過去と未来など、現在の私達とその先にあるべきものに直結するかけがえのない何かです。その重みに対して集団的な感情や意識が及んでいるからこそ、これらの卦に意義が生まれていると言ってもいいほどです。この豫の上六も陰爻の一つとして九四に加勢するように求められている身ですが、既に随卦の兆しの中にあるため、周りの動向に素直に従うべきか迷ってしまいます。というのも、これには他の人には分からない個人的な深い事情が隠されているためです。そのことで場違いな環境にいると感じたり、厄介な事態に巻き込まれて不運を嘆くかもしれませんが、そんな当人の思いをよそに状況はどんどん進んでいき、時の要求に引っ張り出される形で否応なしに関わらざるを得なくなります。大概、対人面にしても不安や躊躇いが先行しますし、意義を理解したり正否を判断するよりも早く行動に駆り出される傾向があるので、腹を決めたり気持ちの整理がついてくるのは後々になりがちです。もし良し悪しの選り分けが難しいのならば、人々の需要と自らの良心が交差するところに従って行動するといいと思います。


※大意は2009年8月12日に、爻意は2010年6月11日に追加更新。


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