10.天沢履
履という字、履物(はきもの)の意味です。靴を履く、ズボンを履く、という風に使われます。まるでリクルート・スーツに身を包んだかのような感じです。また、先人の築いた道を踏む(前例に倣う)という意味でもあります。これと相対するのが先に見た小畜で、履のようなカッチリとした社会性は備えていません。むしろ、そうした社会規範とか常識から外れがちなところがある、といってもいいくらいです。ともかく、その小畜で精神的な遊びの価値を理解したことで、苦やストレスへの一つの対処法を見出しました。小畜の場合は、問題を脇に置くような現実逃避に近いのですが、この履では現実を直視して取り組むことの大切さを再確認することになります。そうして両極の価値を理解することで許容度が高まり、より活動範囲を広げてゆくことができます。これは内外に対する自我の育成と訓練のプロセスです。
内側に対するアプローチは小畜、外側に対しては履ということで、その姿勢や形態が異なります。小畜は家族などの身内、恋人といった自分に近い人達との関係がクローズアップされやすいですが、履の場合は対社会ということで、公共または自分が歩む分野の先輩との上下関係に焦点が当たる傾向があります。あたかも新社会人とか新成人が大人としての礼儀やマナー・自覚・義務・責任・規制・法律・慣例・伝統などを学んでいくように(…現代では、そんなにモラルが高くないのかもしれませんが)、この履では物事の実践に当たっての注意事項が示されます。
履の卦辞には「虎の尾を踏むが喰われない」とあります。虎とは自分よりも権威・権力・権利のある人の象徴です。簡潔にいえば“自分よりも社会的に強い立場の人”の意味です。当然、無礼を働けば制裁を受けます(虎の怒りを買って喰われる)が、大前提として、決められた手順なり約束事(契約内容など)に従えば獲って喰われることはない、ということです。いわば「努々上位者のプライドを傷つけないように」という御触書が貼られている卦です。履には慣習や伝統を踏襲する、平たく言えば真似をするという意味合いがあるので、コピー(贋作・模造品・海賊版)に当たる内容も含んでいます。権利への抵触・侵害・冒涜にならないよう気をつけなくてはなりませんし、またそうしたことに必然的に詳しく、そして厳しくなりやすい卦です。
服を着たり靴を履くという意味から考えると、外へ出るための装備品(オプション)ということになります。履の上九が完全武装の状態です(もちろん山火賁のように着飾るという意味ではない)。権威を嵩に着るタイプもいるかもしれません。…かと思いきや、この卦、女性にとっては裸を象徴していたりします。確かにそうした状況もあるのですが、裸でなくとも女の武器を自覚した色気のある人が多いかもしれません。“裸”を“素(自然)”とか“ありのまま(持ち前)”に置き換えて考えると応用が利きやすいです。
逆に裏卦(錯卦)の地山謙は男性の裸を象徴しており、男気を感じさせる人格の持ち主かもしれません。地山謙は謙虚さが大事な時期だと説かれますが、これは弱気になって謙遜する状態を言うのではなく、パワーに溢れているからこそ自己制御しなくてはならない、という意味での謙虚さです。また、謙の九三はゴタゴタした事態を収拾するカリスマ性の持ち主であったりもします。ともかく、履であれ謙であれ“裸の王様”にならないように注意したいところです。
次に、シンメトリー関係に当たる風雷益との対比を考えてみます。小畜と履、損と益は、それぞれ対立構造とそれを客観視して応用を考える過程を表しています。上下間の軋轢、ギャップ、主従、社会制度、年功序列、時代性というものを経験し、そこに内在する美点と欠点を把握することで、その在り方を変える際に役立ちます。これが次の泰と否、夬と[女后]の意義になっていきます。このことは社会の在り様だけでなく、自分自身の生活においても当てはまります。日常と非日常性、仕事と遊び、緊張と弛緩といった二極性を無限大の記号(∞)のように上手く統合して、それを次の展開に生かす。全ての卦は、連続したプロセスの繋ぎとして働いているとも考えることができるのです。つまり、どれも単体では完結できない。必ずリンクし合う卦があって相互依存が生じています。
続き絵で考えると、履は小畜と肩を組んで道を作り、それを踏み固めていく作業になっています。そして、それを体現して世界に普及させることが次の泰、逆に形骸化してゆくことが否のプロセスです。極限まで推し進めた理想論を現実にどう反映させるか。イメージ通り完成できれば本望ですが、作りかけの状態で作業中止となり方向転換を求められるかもしれません。それは小畜・履の時点ではわかりません。ただ、そうした流れの前段階として機能しているということだけは確かだと思います。
◇初九
一般に天沢履は実技の卦だと言われます。今まで小畜で気づいたり培ってきたことを、この履で実践していく。そういう意味では小畜と履は「知行合一」が総合目標です。小畜で往路を走り、折り返して履で復路を走る。これまでの自分の経験や学びを他者に還元してゆく、その初期段階に当たります。まず自分自身を島とすることがスタートです。誰に頼るのではない、ただ己自身を拠り所として進んでいく、そういう状態です。取り込むばかりで放出する機会のない場所では真価を発揮できないと思えるでしょう。もし現状がそうならば環境を変えて、新たに活動拠点を作った方が良いと思います。初爻変はまだ前の卦の影響が残されており、それを断ち切ろうとして入ったばかりの卦の力を押し出そうとする性質があります。小畜での向学心はかなりのもので、相当に深い所まで及ぶケースもあるのですが、その知恵を消化したら、今度はその流れを現実の生活に反映させていく方法を探らなければなりません。そうすることによって初めて、知恵の本当の意味を知ることができるからです。そのためにも今はまず、自分で自分を奮い立たせるにはどうしたらいいのか、そして本領を発揮するためにはどうしたらいいのか、その自分なりの方法を見出すことが肝心です。
◇九二
初九では実践の初期形態として、自分の活動拠点を設けること、さらに自分自身を鼓舞して元気付ける手段を確立することが課題でした。これができると、どんなに疲労が溜まったり意気消沈するようなことが起きても滅多なことでは潰れなくなります。傷を癒し、毒気を抜き、自力で回復できる術を心得ていると、前進する時の強いバックボーンとなってくれます。これに次ぐ九二では、結果を焦らずに冷静に対処する能力を磨く段階です。何をするにしても成果が出るにはそれなりの時間が掛かるもの。まだ実践に踏み込んで間もない時期に、状況をよく踏まえずに急進しても得る所は少ないはずです。今はクレバーになって時が加勢してくれるのを待ちましょう。その中で必要な処置を行い、最良の結果を得るために注意深く整備してゆくべきです。たとえばクラシックカーの修理に時間と金をつぎ込み、高値で売り捌ける時を待つようなものです。いつでも「思い立ったが吉日」ではありません。たとえやる気満々でも、現実面で準備不足だったら空元気を振るうだけです。ビジネス的には商品価値の充実を図る時。自前の営業や宣伝も有効ですが、商品力があればそれだけでも人づてに広がっていきます。静かに坦々とチューニングし、持ち前の価値を高める努力をしていきましょう。
◆六三
履卦唯一の陰爻で変爻すると乾。兌の三分欠け(実力不足)を補おうとして、要らぬ虚勢を張りがちな時期です。初爻で自分を奮い立たせるテクニックを身に付けようとしましたが、その方法では不中不正の六三は空回りするばかりです。上九とは応じていますが上九自身も正位ではないし、両隣の九二・九四の陽爻とも正比とはいえ、これらも正位ではありません。今の関係を続ける(環境に居続ける)ことはできないと思うかもしれません。結果的に周囲の誰とも高め合う関係とはなりにくく、状況的に孤立する場合が多いでしょう。しかしこの時期の孤立は無意味ではなく、その中で自分自身を見つめ直す必要があることを告げています。普段の生活態度、他者に対する接し方、仕事への取り組み方などに傲慢さがなかったでしょうか? 身の程知らずな振る舞いをしてこなかったでしょうか? 自らの性格的長所と短所に向き合い、素直になりましょう。実力以上の自分を誇示しようと無理をするよりも、実力相応に、ありのままの自分を出した方が周囲の共感や理解が得られやすくなりますし、環境への順応性も高まります。なおこの時期、自分を良く見せようとするあまり、実際の収入以上の買い物をしがちです。変な見栄を張らず、収支のバランスを考えた使い方を心がけて下さい。
◇九四
上(外)卦の乾と下(内)卦の兌は同じ金行で性質的に似ていますが、形態は異なります。先天八卦では兌は乾に続く二番目の卦で、乾に少し届かない(乾が3分の1欠けた)形。乾が満月なら兌は半月から満月の間の時期です。履の場合は、兌から乾へと満月に向かう格好なので、個人的目標であれ社会的野心であれ、その充足に向けて自分を駆り立て、欲求が最大になっていくプロセスです。しかし、六三で虚勢を張って無理した分、ここではその代償を払わされる傾向があり、金銭的苦労も見られます。もっとも、それは自業自得的なミスが原因か、自ら選択した結果だったりするので責任転嫁はできません。九四も陰位陽爻で不正、初九とも不応、九五とも不比で基本的に頼れる人はいないでしょう。仮に同じ境遇にある者同士でも真に心を寄せ合ったり、背中を預けることは難しいかもしれません。それは他者との関係云々よりも他ならぬ自分自身の存在の根本に関わる問題だからです。欺瞞のような日々でも目的を追いかけている間は興奮して我を忘れられますが、いざ熱が冷めるとドッと不安が押し寄せてくるでしょう。また、自分自身の運命の核心に触れるような印象的なドラマを体験して人生観が豹変することがあり、一度そうなると頂上にアタックせずにはいられなくなります。
◇九五
剛健中正の身ですが九二とは不応、両隣も陽爻で仕事仲間やライバルとしてはいいですが、睦み合うような仲にはなれません。適切な範囲での付き合いが求められており、これ以上踏み込んだら関係が崩れてしまうという境界線を把握する必要があります。九四で自分自身の本質に踏み込んだり、ある種の触れてはならない真実に挑戦して遭えなく撃沈された経験をもつ人は、そこから一つの限界性を見出します。どうあがいても変わらない、または変えられない原理が宇宙に働いていること、そしてそれ自体が自分を生かしていることを知る。これは転生の概念に似て、根本的に自己再生し続けながら新たな人生に入っていきます。でも、これは本当に決死の覚悟というか「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」的な感じなので、生半可な気持ちではその事実に肉薄するのはおろか、気がつくことすらできません。デンジャラス・ゾーンに触れて初めて限度を知るという状態。だから、九五は一度は危ない目に遭っても、その後は無理をせずに潔く身を引けるようになれます。中庸性とか「何事も程々に」という意識が強いかもしれませんが、厳しいラインを体験することで自分の弱点や短所(同時に強みや長所も)を自覚できるので、補強していけば将来的には一段と強くなれるはずです。
◇上九
履の最上位で、次の泰の予兆を感じ取っています。辿って来た道を振り返り、そして今、踏ん切りをつけて羽ばたこうとしています。馴染みの環境から飛び出し、新しい世界を見聞したい時期。六三(社会の慣習とか日々の安然を守りたい人達)とは応爻ですが、互いに正位ではないので応援はしてくれても実質的なサポートを期待するのは野暮です。独力で何とかしなければならない状況になりやすいですが、それでも上九は自分の選んだ道に責任と可能性を感じているので、どんな危難にも果敢に立ち向かっていけるでしょう。この時、精神的にも状況的にも助けになるのが先進技術です。それが過去の遺産であれSFのような未来への空想科学であれ、実用に耐えうるものであれば積極的に活かすべきです。今の自分が知りうるものよりも高度な技術を学んで身に付けていく作業。それは模倣だったり、自分の頭の中にあるアイデアの修正案かもしれませんが、とにかく内容を読み取って活用できるだけの能力が必要です。中途半端な実力では窮地に陥った時に活路を見出すことはできませんから、必然的に腕に覚えがある分野が望まれます。次の泰は履で踏み固めてきた道を一般に浸透させてゆくプロセスですから気を抜けません。ここでしっかりと自分の生き方を確立しておきましょう。