= はじめに =
これから64回にわたって易の個人的な解釈を綴っていこうと思います。
易の世界は広大で一筋縄ではいかないかもしれませんが、今の自分の全力を傾注するつもりで、這いつくばってても最後まで貫徹するつもりです。もしかしたら単なる自己満足で終わるかもしれないし、一度だけでは不十分だと痛感することになるかもしれませんが、今そんなことを考えても仕方ないので、とにかくやれるだけやってみようと思います。
なお、これを書くに当たり一つの方針として、「伝統的であれ現代的であれ他人の解釈にとらわれず、自分として納得できる意味を探って、それを素直に書く」ということを決めました。そのため、古来からの易らしい解釈とは異なる箇所が多々出てくるかもしれませんが、それも作者の個性なのだと受け止めて頂けるとありがたく思います。
易の解説書とは言いつつも、僕自身まだまだ道半ばの身であり理解も十分ではないでしょうが、それでもこれから何度となく易の解説を試みる過程で、読者に役立つものを提供していきたいと考えています。至らない点も多々あるとは思いますが、皆さんと一緒に成長して行けたら幸いです。
*************************************************
◎卦爻の関係性について
初爻から上爻までの各爻には各々の立ち位置があり、古来よりいわゆる縦社会的な関係性が示されています。現代社会で言えば、初爻が平社員、二爻が課長、三爻が部長、四爻が中堅幹部、五爻が社長、上爻が会長といった風にです。しかし、そうした縦の繋がりだけで読もうとしても今の時代には通じないことが多いでしょう。もちろん、上下関係の観点から論ずることも十分意義のあることなのですが、加えて横の関係、さらには斜めの関係とも言えるような相手と付き合うことも考慮に入れる必要があります。
易の発想の根幹は陰陽、つまり二元性にあるので、自分と相手、主体と客体という鏡像関係が基調にあります。これは例えば、上卦(外卦)と下卦(内卦)という八卦同士の関係もそうですし、細かく言えば初爻と四爻、二爻と五爻、三爻と上爻という“応”の関係も鏡像です。これは占星術でいうオポジション(180度)のアスペクトと同じであり、互いに向き合う形で現象を織り成しています。この理屈で考えると、隣り合う爻同士はセクスタイル(60度)、一つ飛んだ関係ではトライン(120度)の関係という風になります。
しかし、それもまた一面的な見方であって、易の卦爻辞にあるように卦の主体となる爻(成卦主)との関係や彖伝・象伝、綜卦・錯(裏)卦・之卦などの他卦との関係も踏まえて総合的・体系的に捉えていかなくては深い理解を育むことは叶いません。ある特定の卦や爻だけを専一的に探求したところで、他との相補性や根底にある共通性などを度外視していては、その核心に踏み込むことはできないのです。ここでは、そうした面も考慮しつつ解説を書いていこうと思っていますが、参考までに以下に全ての卦に共通する各爻の意味について触れておきます。
#初爻
どの卦でもそうですが、初めの段階ではその卦本来の意味を自覚することなく、無邪気な子供のように奔放に弄びます。まだ卦の意義や活用法などに思い至ることもほとんどないので、現実的な面で意識して使うということは難しいでしょう。しかしその分、自分の気がつかないところで潜在的影響力が押し出されてくるため、思いがけない考えが浮かんだり、これまでとは違った行動を取りたくなったりする衝動に駆られやすくなるでしょう。これは一つ前の卦の影響を断ち切って今の卦に気持ちを乗せていくための通過儀式のようなものなので、別に悪い意味はありません。ただ、「見る前に飛べ」的な感じなので危なっかしさは付いて回るでしょう。もし、否定的な方向に流れているなと感じたら、その瞬間が次の爻への転換点となります。むろん肯定的な方向に進むケースも多いですが、いずれにせよ、その状態のまま無思慮に突き進むには限界があることに気がつきます。そこで初めて、今いる卦の意義や影響を自覚的に感じようとしたり、考えようという傾向が強まってくることになります。
#二爻
何の考えもなしに、ただ卦の持つ力の操り人形として体をくねらしている時期は過ぎ、二爻では「自分を動かすこの力は何だろう」と疑問を抱きます。いわば科学の思考法に似ていますが、自らの感覚や知識を使って初爻で経験したことを整理しようと努め出すのです。感じるとか思考するというのは自然と内省的な姿勢になりやすいので、初爻のような衝動は理性の下に置かれ、なりを潜めていきます。自己抑制が掛かるために行動力が弱くなりがちなのは玉に瑕ですが、自分で納得できるまでは存分に感じ、味わうことも必要なプロセスかもしれません。今は、卦の意味を十分に消化して自分の意識下に置くという目的があるので、それをあらかた達成するまでは、なかなか実際的な行動には移れないでしょう。人が科学を発達させて自然界を支配しようとしてきたことで皮肉にも強い力を獲得してきた歴史があるように、卦がもたらす力を自発的に有効利用できる方法や手段を得るまでは、まだどこか恐怖感にとらわれているのです。しかし、このことも各爻を経験していくにつれて認識の視野が広がり、なぜ畏怖する気持ちが残されるのか、その意味に気がつくようになってきます。
#三爻
さて、二爻ではコンピュータでシミュレーションするように思考実験を繰り返してきましたが、ようやく理論的に確信のもてそうな状態になってきたため、ここらで思考実験を打ち切り、重い腰を上げて現実的な経験領域(フィールドワーク)へと踏み出すようになります。先の初爻では潜在的な力に振り回されるように動いていましたが、この三爻では自分の意志で実験的に行動するようになります。しかし、まだ上卦を経験していないために不確定要素も多く、技術的にも洗練されていないので、期待に反して大抵の試みは上手く行きません。それでも「失敗は成功の元」をモットーに、どんどん実践を重ねて更なるデータを集めようとするでしょう。今は、そうすることでしか卦の意義を確認する方法はないからです。すでに思考上の想像やシミュレーションでは追いつかないほどに現象は進展しており、一度や二度つまづいたくらいでへこたれているわけにはいかないのです。どんな結果が待ち受けていようとも「七転び八起き」の精神でめげずに頑張る時です。
#四爻
初爻から三爻までの下卦を経験した後、この四爻でやっと卦の全体像に対する自分なりの理解が生じてきます。それまでは衝動に突き動かされたり、感情に流されたり、なんとか試行錯誤しながら行動を重ねてきましたが、ここでいったん冷静さを取り戻して収集したデータを整理できるようになります。もっとも、まだ上卦に来たばかりの時なので半分は想像の範疇を超えていませんが、過去の統計やら経験則を鑑みて比較的バランスの取れた生き方を模索できるようにはなっています。一方で、下卦と上卦を隔てる溝または壁に突き当たるために、これまでのやり方では上手く対応できないことにも気がつきます。同時に、今までの自分にとっては異質な行動パターンが出てきて意外に思うことも増えるでしょう。この上下の卦のギャップが大きいほど心理的な反動が大きくなるので、考え方や生き方が傍目にも分かるほどガラッと変わってしまいやすいのです。しかし、これによって自分が弱くなるわけではありません。この状態は、今までずっと避けていた、または見えていなかった資質が卦の内部にある溝を跨いだ拍子に呼び起こされ、それに対して一時的なショックを受けているに過ぎません。しばらくは慣れなくて違和感があるかもしれませんが、次第に自分の新たな力として取り込めるようになっていきます。
#五爻
この五爻に至って、四爻で現われた背面的な影響力を自発的に有効利用できる力が身に付いてきます。プロセス的には下卦と同じく上卦の力を制御するという流れ作業ではあるのですが、大きく違うのは、今は上卦だけでなく卦全体をも統括する段階にあるということです。そのためには相当な実力が要求されますが、先の四爻で新たな自分の資質に気がつき、一度は動揺しながらも上手に折り合いをつけて受け入れることのできた人は、もう十分に全体をまとめあげていくだけの能力と耐久力を持ち合わせているでしょう。応じる関係の二爻では、ただ思考上・感覚上の制御が精一杯で現実レベルでの統制にまでは至りませんでしたが、五爻ではこれまでの経験を踏まえた上で、しっかりした準備と気構えをもって事に当たることができます。また、二爻の時から残留し続けている畏怖心は適切な形に昇華され、自然との共生精神や世界そして人々を敬い愛する心に変わります。もっとも誰も完璧な人などいませんから、この五爻にある状態でも間違いは犯しますし、なまじ力があるだけに支配的になって権力を振るったりする人も出てきます。強い力を持つ人は、その扱い方にも熟達するように努めなくてはなりません。
#上爻
卦としての最高度の力は五爻で発揮されるため、ここ上爻ではすでに実権はありません。引退した身として、静かに見守りながら実務を担う人々のバックアップをするような立場が向いているでしょう。どこか「水戸黄門」の黄門様のような感じで、最上位としての存在の威光は顕在です。しかし、上爻はすでに次の卦への変化の兆しを感じ取っているために、どちらかというと現状に飽きており、これまで経験してきた内容を回顧したり反芻しつつも、そこから抜け出る方策を練っているような状態にあります。おそらく何らかの事情で復権を求められたり強く誘われたりしない限り、今さら自分から戻ろうとは考えないでしょう。たとえそう考えたとしても、復帰する時期としては遅すぎる場合がほとんどで、どの道「ここには長く居られない」と、居心地の悪さを感じることになりやすいと思われます。そうして一つの卦を味わい尽くし、いざ総括しようとする際、易全体の流れとして必然的に次の卦のことが想起されるので、どうしても現在の自分の立脚点を否定するような言動を行いがちになります。このことは、まだ同じ卦に固執している人々との軋轢を生みやすく、反感を買う恐れがあるので注意が必要です。社長や会長が社会貢献のために植樹活動を行おうと提案しても、実利性がないとして幹部連中らに鬱陶しがられるケースなどが、まさにそうです。明確なヴィジョンがなければ、結果的に孤立したり自ら周囲との距離を置くようになるでしょうし、逆に今できないことをするために、思い切って新しい目的に沿った会社を立ち上げることを企図するかもしれません。いずれにせよ、次の卦に移る準備を進めなくてはならない時期です。
――さて、このような内容を土台として、それぞれ卦によるバリエーションが加えられていくことになります。もちろん、ここで解説した内容は僕から見た理解であって誰もが納得できるものではないでしょうから、参考にする分には構いませんが決して鵜呑みにはしないで下さい。それぞれの人には個別の真実が見えるものですし、価値観やそれに付随する判断も異なります。誰かの解説や判断に頼りきらずに、各自が自らの易を見出していくことの方が重要だと僕は思います。繰り返しますが、ここでの解説はあくまで参考程度に留めておきましょう。
*************************************************
これから綴ってゆく易(周易)の現代解釈には、古典として現代人には馴染みにくい卦辞や爻辞そのものを省いています。それらの文章には吉凶悔吝といった成否や禍福を判断する語が入っており有用なのですが、それにこだわると現代での発展や応用に歯止めが掛かってしまうおそれがあると思うからです。そのため、僕はむしろそうした吉凶の概念を脱色する方向性で読解を試みています。
また、物事の吉凶や幸不幸などは一過性の出来事で判断できることは少なく、多くは長期的な展望が必要になるため、なかなかその帰結を得るのは難しいという理由もあります。少なくとも僕自身について言えば、それらの判断を適切に行う眼力を持ち合わせているとは到底思えません。こうしたことを背景に、今の僕は吉凶悔吝などによる卦辞・卦爻判断を保留にして、そうした内容に固着しない書き方を旨とするようになっています。読者の方には、まずこの辺の事情を予め了承して頂きたいと思います。
それでは、これから六十四卦の現代解釈に取り掛かろうと思います。
達成までは長い道程となりそうですが、お付き合いの程、宜しくお願い致します。