*巽の意味


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・巽(風)

坤から変化した震とは逆に、巽は乾からの変化です。
全陽の下層部に陰が入り込んできた図像で、足の部分が虚、胴体が実という不安定な存在形態。

正象は風。
開かれた窓から風が室内に舞い込んでくるように、風はどこにでも自由に出入りすることができる。
それが、巽の特徴でもあるからです。

風は世界中を駆け巡ります。
遥か彼方、サハラ砂漠の上を走り回っては砂嵐を巻き起こし、時には何百キロにもわたる大海原を飛び越えて異国の香を運んでくる。
ハリケーンとなって猛威を振るうこともあれば、木立の影で休む者たちを癒そうと爽やかに吹きつけることもある。
またある時は、大都会のビルの隙間を潜り抜け、うっそうと茂る人混みの中を身をかわすように通り過ぎていく。

風は自由に飛び回れることを望みます。
何ものにも束縛されず、誰にも指図されず、自由気ままに放浪の旅を楽しみたいと思う。
一人ひとりの個性を尊重し、誰彼問わず独創的な才能を評価することを好むので、自分の考えやこだわりを押し付けたり、押し付けられたりする偽善を厭うヒューマニストでもある。

だから、弱みを握られて従属させられたり、厄介な面倒事に巻き込まれたりして自由性を損なわれると、とたんに憂鬱さを覚える。
そしてそんな日々が続くと、少し開けられた窓さえも自ら閉ざして、部屋の片隅に動きもなく停滞してしまう。
心は揺れ惑い、どうしたらいいのか進退を決められない。気の迷い。臆病風。ちょっと出ては、また引っ込むを繰り返す。

でも、考えてみればそれもそのはずで、風は総体で一つ。どこからどこまでと区切ることはできない。
いわば世界中の風が自分自身だと言ってもいいにもかかわらず、またいつでも自分の内から面白い情報を発信できるにもかかわらず、それを他の人や何かの事物に求めてしまうから、なかなか自分自身の長所を伸ばせず、素晴らしい特技さえも生かせずに幻滅してしまう。

もともと「存在意義」とか「居場所」とか、そういったものは探すものではなくて、既にそこにあるもの。
モーリス・メーテルリンクの「青い鳥」(幸せの青い鳥を探すチルチルとミチルの物語)ではないけれど、今いる所が、今の自分に必要な場所。
このことを確認して、現在の立脚点の意味を納得できたら、そこから自然と次の目的地が描かれていきます。

巽の性情は基本的に、個性およびグループ活動にあります。

まず、個の独自性というテーマは巽における重要な関心事であり、個々の活動の多様性とユニークさを尊重することが基礎となっています。先に触れたように、束縛されない自由な立場を好む風の性質は、「平々凡々の生き方」や「みんなと一緒」をことさらに厭います。

ありきたりの俗習や伝統に縛られて身動きが取れなくなるのが嫌なのです。平均的・最大公約数的な処世術に長けたところで面白くもなんともない。
それならば、むしろ異端や変わり者と言われるほうが刺激があっていい、とさえ思うのです。

だから、一人でやれることを求めたり、才能や独自のアイデアを評価してもらうことを欲する。
でも、見向きされないと引きこもって孤独の時間を過ごしてしまう。

けれど、そうした状態も適切な関係の下でのグループ活動に参加できるようになると、状況は次第に変化していきます。何かの調査隊や研究グループ、趣味におけるハイレベルな集まり、既存社会に改善を提唱する意見会など、分野は何でもいいのです。
気の合う仲間達とのコミュニケーション。自分だけのものだった情報を与えたり与えられたり、独自の意見を交換しては学び合う。
こうした活動は個々の才能と情報精度を高めると同時に、相乗効果によって全体の意識フィールドを向上させます。

“類は友を呼ぶ”の働きで、自分の性質に近い人たち、同じような趣味や考え方を持つ人たちは、従属関係ではない対等で並列的なグループを形成します。
そうした中で生じる様々な相乗効果や波及効果が、さらに活動や行動のエネルギーを高めることになるのです。

一方、これに類似しながらも微妙に異なる感情体験があります。恋愛関係や親子関係です。
どちらも、友人同士の関係と同様にコミュニケーションが重要な意味を持ちますが、一つ異なるのは“埋め合わせ”が大きく関与してくることです。

コミュニケーションは互いの意思を通わせる方法ですが、そこに相手に対する感情的な思いが入り込むと、本来の冷静さが損なわれてしまいます。
その結果、意思疎通が正確に行われなかったり、意味の食い違いが起きたりします。
自分に足りないものを他者に求めるあまり、その人が完全に自分と補完関係にあると無意識の内に思い込んでしまうためです。
端的に言うと、自分という半円と相手という半円を合わせると、一つの全円になると考えてしまうわけです。

例として、恋愛関係について考えてみましょう。
出会った当初は、お互いに見つめ合ったり触れ合うことで、内側のエネルギーが満たされていくので幸せな感覚を覚えます。
その相手を思ったり考えると気持ちは高揚し、脳波さえ同調し、以心伝心のごとく意識が通じ合うように感じるからです。実際そういった経験をすることもあるでしょうし、それはそれで貴重な体験です。

問題なのは、その高揚感や幸せな感覚をいつまでも味わい続けたいがために、相手に過剰の期待と負荷をかけてしまうことです。
自分に欠けている面を特定の相手のエネルギーによって補うことを覚え込んでしまうと、必要以上に相手を求め、拘束してしまいがちです。

そのため、相手のエネルギーを自分のものにしようと固執し、それが悪化すると、互いに相手より優位な立場に立って主導権を握ろうとする。
無意識の内に相手を自分の都合のいいように支配し、エネルギーを利己的に奪おうとしてしまう。
そして、最終的には両者の関係は失望と共に破綻するか、真に自分の欠損を補えるターゲットを他に探すことになるのです。

しかし、その行為をどれほど繰り返そうが、決して功を奏しません。
もともと私達は、自身の内に神性を宿しており、その神性は大いなる宇宙とリンクしています。
そのため、真に望めば、自分に欠けた半円や欠損を補う力を大宇宙から直に取り込むことができるのですが、大概の場合、私達はそのことを忘れてしまっています。そのため、その代替としての異性を求めてしまい、結果的に永続しないのです。

先程出てきた「青い鳥」の物語は、鳥である水星が自分自身の神性である太陽を信頼するか、あるいは外側の金星を求めるか、という構図に置き換えても良いかもしれません。(一応、占星術では太陽と水星が近すぎるとコンバスト(燃焼)として嫌いますが、肯定的な見方も可能だと思います)

異性関係そのものは価値あるものですし、経験として必要不可欠だと私は思っていますが、恋愛それ自体と自身の神性を活用することとを錯覚してしまうと、いずれ二人の関係には単純なエネルギーの奪い合いや空しさが訪れてきます。
互いの個性と人生の目的を尊重し、相手の良さも悪さも理解して助け合う、そうした関係であれば結婚後も長続きしますし、仮にその後、進路が異なって別れる際も、主だったわだかまりはないでしょう。

このことは、親子関係においても基本的には変わりません。
親から見た子供、また子供から見た親そのどちらにしても、相手の中に自分の足りないもの、受け継がれているもの、未練に思っているもの、嫌だと思っているもの、評価しているもの、などを見ています。

もし、その中で相手に対して、怒りや嫉妬や不安や批判や無理解などの感情に思考と心を支配される時、今自分が見ている状況と同じ状況が、再び将来において繰り返される因子を作っていることになります。
つまり、将来の自分の子供に同じように思われたり、あるいは縁のある誰かにそのように思われる状況を招いてしまうのです。
これはまさしく自業自得であり、「蒔いた種は刈り取らなければならない」の格言の通りです。

一方、相手をありのままに見て、評価すべきことは評価して自分にも取り入れ、反面教師とすべきことは今後の教訓にしようと考えたならば、未来の結果として、自分を見てそのように考える賢い子供や縁ある者を引き寄せる因を形成していることになります。

また、親子間のコミュニケーションにおいても、親の望みや期待と子供の望みとは、多くのケースで一致しませんから、親の意志を無理やり押し付けることはもちろん、子供の個性や適性、そして自主性を考えない無思慮な物言いには気をつける必要があります。

特に大人と子供との関係で普段から感じることは、すぐ傍にいる子供の話をしているのにもかかわらず、その子を無視したような話で盛り上がっていたり、どうせ理解できないと思っているのか勝手に子供を蚊帳の外にしてしまったり、謙遜しているつもりなのか、自分の子供のダメなところを他の親に言っている馬鹿な親がいる、ということです。

子供は、周りの大人が思っている以上に話をよく聞いているし、内容も完全ではないにしろ理解しているものです。
難しい言葉が出てきても、そこにくっ付いている雰囲気やフィーリングで、自分を褒めているのか貶しているのかも感じ取っています。
それなのに、大人の勝手な思い込みのせいで恥ずかしい思いをしたり嫌な思いをしている子が、一体どれだけいることか。

子供を交えている時は、必ずその子も話の輪の中に入れましょう。
わからないことは、きちんと筋道を立てて教えてあげましょう。思い込みや感情的な対応は慎みましょう。
一人の人間として真っ当に関わり合うことで、その子の自発性や可能性が大きく伸びていくことを忘れないで欲しいと思います。

話を戻すと、巽の伏入という意味は、相手に上手く取り入ったり、心の隙に付け込むといったネガティブな面もありますし、逆に、要領の良さや世渡りの上手さを肯定的に活かして、色々な経験を楽しみ、そこから学んでいくこともできます。
巽の心は、案外に紙一重のところで揺れていますから、短絡的に良し悪しを判断することはできません。

ふとしたキッカケで、颯爽と大空を舞う鳥のように飛翔することだってできるのですから。

先天八卦の原理では、巽の月は、明け方の西の空の下に潜んでいます。
乾の満月を過ぎて数日経った時ですから比較的まだ大きな姿をしていますが、これから段々と細く欠けてゆく憂いを感じる月です。
満月での旺盛な気力に影が差し、ちょっとやる気のなさというのか、メランコリックな気配が出てきますが、これもまた時の流れ。
陰陽の消長は、常に休むことなく連綿と続いています。

占星術的観点では巽の象徴は水星、エニアグラムではType4だと思います。



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