*乾の意味


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・乾(天)

陽気が充実した全陽の塊が乾です。純粋な陽として活動を続ける存在のシンボルは天。現代的には、大空や宇宙でもいいでしょう。
このことから、一般に「最上」「最大」「最高」「円満」「健全」「充実」「偉大」といった“めでたい”象意があります。
しかし、その一方で裏の意味として、「高慢」「尊大」などが潜んでいて、上に立つものの誇り高い一面も備えています。

陽はエネルギーを表していますから、乾とは力に満ちた卦だと言えますが、エネルギーはただ単に一つの形態のみを示すものではありません。
対外的なパワーとしての充実さを示すこともあれば、内に秘めた強い思い、あるいは知力や才能、経験的構築として内在していることもあります。
それらは卦の組み合わせ(64卦)や、その時の状況に応じて柔軟に発想して考えていく必要があります。

このことは、乾が内卦(下卦)にあるか、それとも外卦(上卦)にあるかによっても変わってきます。
つまり、自身の内(内部)から生じてくるものなのか、あるいは外部から生じてくるものなのか、ということです。
その内外の考察は、他の八卦についても同様ですので、その時々でよく考えてみてください。

乾は戌亥(いぬ・い)でもありますから、後天八卦では乾宮として北西の方位を司っています。
北西は秋から冬にかけての季節に当たり、古くは作物の収穫と貯蔵に関係した場所でした。
これは生存と発展ということを、大局的な観点から眺めて得た賢明な方法です。

現代では、あらゆる物事の多様化によって複雑な様相を呈してはいますが、基本的には変わりません。
乾宮は、私達の創造物の成就と収穫、そして未来へと生き延びるための貯蔵が行われます。

例えば、子供。
子供は家系を存続させる世継ぎであるだけでなく、未来の社会へと夢を繋いでゆく大切な存在です。
小さな存在は、いつしか大きな存在となり、一人ひとりが重要な役割を担って社会や文化を形成していきます。
やがてそれは人類としての巨大な意識体となって、地球を愛し、様々な文明を花開かせてゆくのです。

この時に重要なことは、それぞれの人の持ち味を生かした職業に就くことです。

今の時代、機械労働的な仕事はオートメーション化されていますし、今後もさらに拍車がかかることでしょう。
その影響で、仕事を機械に取られてしまって仕事にあぶれた人達が大勢いたことも確かです。
しかしその分、人間としての持ち味を活かせる仕事を見つけることが許された、と解することもできます。

実のところ、スムーズなオートメーションというのは環境に優しいものだろうと、私は信じます。
スムーズにするためには、無駄な作業を作らず、資源を余計に浪費しない必要がありますから、こうした場での効率化は有益なのです。
これに関して、人員が削がれるという面をネガティブにばかり捉えて問題視する番組があったりしますが、それは一面的な見方です。
先にも触れたように、解雇されたり辞職した人は、それを転機に自分らしい新しい仕事を始められるかもしれないのですから。

しかし、それに対しても、「もう年も年だから、そんなことを言っても仕事にありつくのは難しいよ」と反論される方も多いかもしれません。
でも、それはそうして自分自身の生き方を勝手に規定しているに過ぎないのではないでしょうか?
可能性をはじめから無きものとして捨ててしまってはいないでしょうか?
人生の一大転機は、若かろうが年を取っていようが、訪れる時には正面切って訪れてくるものです。

手をかける必要がなくなったものは、時折メンテナンスを入れる程度でよく、後はオートでも事足ります。
本当は、自動化によってプレゼントされた時間を、どう創造的に使うか、ということが問われているのですが、これまでの生活スタイル(固定観念)から抜け切れないと、それを空白の時間と捉えてしまい、何とか仕事(雑務)を詰め込もうとしてしまう。
せっかく贈られた時間も、これでは「宝の持ち腐れ」。何の意味もなくなってしまいます。

このことは、過剰なほどに仕事人間として働いてきた人の定年後の生活に、とてもよく表わされています。
何の趣味も楽しみもなく、これまで仕事一筋で生きてきた人は、仕事以外によりどころを求めることが難しいという性を持っています。
要するに、常に動いていないと落ち着かない、という逆説的な性質です。

この時、もし孫でもいれば、ある程度そちらに気持ちを向けられますが、独身の場合では、そうもいきません。周りが孫の話で盛り上がっている中で独り寂しい思いをするかもしれません。

もちろん、余生を仕事に生きるというのも、選択肢の一つです。
畑仕事を始めてもいいし、これまでの仕事の技術を後世に伝えていくのもいいし、まったく別の仕事で自分の才能を活かすのもいい。
その時に肝心なことは、それまで過ごしてきた半生の単純な延長にしない、ということです。

還暦という言葉もあるように、60年ほどを区切りに生きる次元というのか階層が変化してくるものですが、これを、ただ単に前半生の同一円状を回るような生き方にしてしまっては、あまり有益なものとは言えません。
螺旋階段を上がっていくように、だんだんとシフトアップしてゆくのが自然な流れですから、還暦やリタイア(定年退職)に限らず、人生の転機が訪れた時には、それに応じて意識や発想の転換が求められるのです。

生来のクリエイティブな存在として、全ての人は、そのイマジネーションを存分に発揮するべき時代に生きています。
「民間にできることは民間に」ではないですが、「機械にできることは機械に」やってもらえば良いのです。
その分、人間にしかできない創造的活動に勤しめる時間ができたのですから、これは尊ぶべきものでしょう。

自動化によって、素早く正確に、また必要に応じて大量に生成されるものに大きな値打ちは付きませんが、それによって物価が抑えられ、人々に安く良いものが提供されることにもなります。
確かに「しょせんは安物」というようなものも多々ありますが、そうしたものは時代の流れに淘汰されるでしょうから、だんだんと、実用価値のある「使える」ものが残ってくるだろうと思います。

乾は、貴金属や宝石などの貴重品だとか、マンションやビルなどの不動産、高級車、豪邸、金のなる木(資産)といった高価なものを表わしていますが、私を含め、そうしたものに大して魅力を感じない人達は、一体どんなものを乾の品として見るのでしょうか?

人によって表現は異なるかもしれませんが、高価な物に惹かれないのであれば、高尚な精神や豊かな心といったものではないでしょうか。
あるいは、真の意味で人生に役立つ情報や知識、知恵、教え、考え方、技術、貴重な友人や知人・・・といったものではないでしょうか。
少なくとも私は、そうです。・・・ですが、それも結局は程度の問題、バランスの問題であることは明らかです。

豊かであると言うことは、“物心両面において”豊かであるという意味でなければ、しょせんは“かりそめ”でしかありません。
物質的な豊かさだけを得て、精神的な豊さ(成熟)がなければ、いずれ見るも無残な姿になってゆくでしょうし、反対に、精神論ばかり立派でも、現実の生活もままならない状態では、結局のところ何もなし得ることはできない・・・

私は、今までの経験と見聞からこのこと(特に後者)を実感してきたので、現実的な裕福さと精神性の豊かさを同居させたいと思っています。
今こうしてコツコツと文章を書いているのも、そうした自分に近づくためのステップです。私は裕福でありたいし、いつも心豊かでありたい。
その気持ちは、日に日に強くなっています。そして、そうなった自分ができることは何かを考えています。

ところで、実用価値という点では、技術屋が作るマニュアルのような複雑怪奇なものではなく、ハンドブック的な、ごく簡単で扱いやすいものにこそ実用価値があります。
そして、そうしたものはより簡素な資源で済みますから、環境にも優しいですし、何より内容を記憶しやすい。
(その意味では、私のサイトはあまり実用的ではないかもしれませんが・・・)

本来ならば、機械の処理能力が上がって作業能率がアップすると、それを使う人間の生活ペースは緩やかになっていかなくてはなりません。
しかし、今は機械の高度化につられてか、あるいは高度化させるために人間の生活ペースも急がなければならなかったのか、まるで忙しない毎日を送ることが人間の生活だと思い込んでしまったかのようです。

生活のスピードを緩やかにしなければならない理由は、物事・出来事・人々・社会・世界・地球・宇宙の一つ一つに対して、必要な叡知と真実を見出すための時間が確保されなければならないからです。

あらゆることを大きな視野で見たり、注意深く考えることは、急き立てられるような日々の中では困難です。
一応、両立させることが不可能なのではありませんが、誰しもがそんな毎日に耐えられるものではありません。

それよりも、やはり「三人よれば文殊の知恵」というように、多くの人々が協力し合い、互いの知恵を寄せ合って、大小様々な問題に対する解決法を模索していくことの方が有効だと思います。

よく言われるように、文明の高度化に伴い、私達は自分達の住まいである地球をないがしろにすることが多くなってきました。
人間の都合の良いように自然環境を切り崩し、あらゆる目的のために人工物を築いてきました。
しかし、社会文化が発展する一方で、地球や自然環境に対する傷は深く大きくなり、異常気象などの形をとって危機を訴えています。

また、高度に発展する国がある一方、その文明の進歩に置き去りにされ、貧困や病苦などの問題を抱え込んでいる国もたくさんあります。
日本に暮らしている人は、その点、考えられないほど裕福で豊かな生活をしているのですが、そのことを気にかける人は滅多にいません。大概は、そうした生活が当たり前のものとして考えられているため、貧困などで喘ぐ人達の真の苦しみは分かりません。

それはこれを書いている私にしても同じです。
私は日本という恵まれた国に生まれ、恵まれた日々を送ってきているからです。

毎日風呂に入れるし、飲み物にも困らない。水はふんだんに使える。暖かい家と家族に囲まれ、快適な生活空間。
食事にも特に事欠いたことはないし、着る物もたくさんある。街は清潔で、腐臭に満ちているような場所など、まず見当たらない。
お金も生きるに必要な分はあるし、もし無くなっても仕事を選り好みしなければ稼ぎに心配はない。

こういったことが、一体どれだけ恵まれているか、考えてみましょう。
例えば、お風呂に使う200リットルのお湯(水)があれば、どれだけの生命を潤すことができるでしょうか。
歯を磨いたり、手を洗ったりしている時に流しっぱなしにしている水があれば、果たしてどれだけのことができるでしょうか。お菓子にジュース、タバコにお酒にと、何気なく使っている小銭があれば、どれだけの多くの命が救えるでしょうか。

本当は、貧しい生活をする人にも責任があります。
自分を貧しくしているのは、他ならぬ自分自身でもあることは紛れもない事実だからです。
しかし、それを責めても始まりません。
そのことを理解するためには、裕福さに対する嫉妬や貧しさに対する自虐の愚かさに気がつかなければならず、差し伸べられた手に心からの“感謝”を感じられなければ仕方ないからです。

真に豊かな人、裕福な人は、どんな時でも感謝の気持ちを忘れません。
逆に言えば、感謝(恩返し)の心がなければ豊かさに恵まれることないのです。
この真理に気づかない限り、貧困者は貧困者のままであり、裕福になることは叶わぬ夢でしかありません。

また、富める者は自分のした奉仕や貢献に見返りを求めたり、相手からの感謝を催促することはしません。
それは心の貧しい者のすることであり、偽善であり、その心の貧しさが現実の貧しさを作ると知っているからです。
見返りなど求めなくとも、与えてできた空間にこそ、お金なり必要なものなりが入ってくることを知っているからです。

乾は、与えることによって望むものが与えられる、という因果応報の理を示す卦でもあります。
私がこうして文章を書くことで読む人に何らかの啓発があれば、その因果は満月の光ように反射して、私に更なる知恵を与えてくれるのです。
しかし、もし私が読者からの見返りや感謝を期待していたら、その卑しい心によって恵みが相殺されてしまい、ただの自己満足な発表に終わってしまうでしょう。

このことは、実に偉大な真理なのです。
その時の自分自身が最良と思えるものを与えることは、与えて空いたスペースに、より素晴らしいものが与えられるということであり、この実践によって、どんどん深遠で広大な知徳の世界に入っていけるのです。

逆に、自己保全に走り、偽りの情報や役に立たない知識を与えていれば、当然そうしたものしか反射されませんから、恵みにあやかれないことはもちろん、酷ければ役に立たない情報をつかまされた人々の恨みすら買う恐れが出てきます。

これが「富める者はますます富み、病める者はますます病む」ということに他なりません。

ところで、今このインターネットを使っていながらもできることがあります。
例えば「クリック募金」。これは、クリックする人に代わってスポンサー企業が代わりに募金を行うというシステムです。何もしないで旨いことばかり言っているよりも、何か少しでもできることをしたほうが偽善にはならないのではないかと思います。

さて、月体納甲(先天八卦)の原理では、乾は満月の頃(旧暦15日前後)に当たります。
つまり、月が太陽の光を最も高い反射率で地球に送っている時期です。「♪十五夜 お月様」という唄がありますね。
喩えて言えば、部屋全体を明るく照らす照明のようなものです。

地球に光のパワーが最高潮に降り注ぐということですが、それだけ月は太陽に自らの片面を投げ出して奉仕しているわけです。その分、月に象徴される「一般大衆」「女性もしくは女性性」は、太陽の光という「権威者」や「男性もしくは男性性」に凌駕されることになります。
また、「狼男伝説」ではないですが、感情抑制の箍(たが)が外れやすくなり、行動が不安定になるという一面も時にはあるのでしょう。

人物では、「父」を象徴していますが、これは単なる父親というよりも、人生の教師や威厳ある者としての意味合いで捉えたほうがいいと思います。
もっと拡張すると、これは「人生みな師なり」の思想哲学になります。つまり、「出会う人や経験する出来事は全てが教訓になる」という考え方です。
たとえそれが反面教師としてであれ、そこから何かを学ぶことができれば、その人や出来事の存在意義に感謝が生まれ、成長のための栄養素になります。

一方で、その逆パターンも想定できます。
私たちが物心両面で成育して、理性と感情とを調えた大人である時、その生き方、その働きは、真に人々に役立つものになります。
ただし、貢献の内容は人それぞれ違います。

社会問題や地球環境問題などの重要懸案に対する解決策を提示したり、海や森などの自然環境の保護活動を推進したり、文化的豊かさへの技術的・芸術的貢献をしたり・・・と公共性の強いテーマもあれば、親しい間柄や我が子に対する手引き、生徒や部下への教導、あるいは地域住民との街の美化運動といった身近な範囲であるかもしれません。
ともかく社会的・精神的いずれにしても、何か関わる人々の手助けができるという思いが生まれるのが、乾の肯定的側面です。

占星術的な観点からすると、乾は木星の象意に類似しています。エニアグラムではType2。


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