*坎の意味


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・坎(水)

巽で入り込んだ陰が深部まで浸潤して、両側から挟み込むように陽を閉じこめた形象が坎です。
そのため、卦徳は陥険。表面的には陰で冷たく、内面的には陽ですが閉じ込められているため、その明るさやエネルギーは外側には出てきません。

そうした性質上、表立った働きは控えめか苦手ですが、裏での補佐や根回し、計画や知略といったことには長けてきます。冷静さと忍耐強さを備えた坎は、内に秘めたパワーと知力を発動させて、他を圧倒するほどの鋭く的を得た指摘をすることも度々です。
感情に流されず落ち着いてさえいれば、正確な論理的思考や深い哲学思想などを披露することさえできます。

また中には、社会の裏側や法律の抜け穴、ドロドロとした人間関係の事情・・・といったことにも通じているような人もいるかもしれません。
もちろん、それ自体が悪いということはありません。それを知って、自分を腐らせてしまった時に問題が生じるのであり、良識と自制心を弁えている人であれば、それが別の形で役に立つこともあるはずです。

坎の基本的な性質として、何かと「縁の下の力持ち」的な存在として活躍することが多くなりますが、そのぶん評価されない時のストレスの溜まりやすさはトップクラスです。
もし何か他のことで人の上に立つ(指導する)場合には、普段の反動から権力的になることもあります。

結局のところ、これは上に立つ者の心が分かっておらず、単に自分勝手に解釈していることに起因していたりするのですが、人は自分がされてきたことを後に続く人達にもしてしまう傾向があるので、ある意味、致し方ないのかもしれません。
けれど、それも見方を変えて、相手の立場から学ぶことの価値に気が付いたり、自己洞察できれば、その悪循環は防げます。

多くの場合、誰かの陰(影・蔭・黒幕・暗躍)としての役割を担っている人は、支える喜びの裏側に、そこに掛かる負担や重圧も感じています。
もっとも、それがまだ軽くて前向きな考えができる状態であれば――裏方としての才腕を揮える楽しさのほうが勝っていれば――思い煩ったり、苦悩するほどでもありませんが、逆に、活躍の場を見い出せなかったり、働きを評価されないことに苛立ち始めると、ストレスのはけ口を求めて当て所なく彷徨うことになります。

同僚に「もうやめてくれ」と言われるほど毎日愚痴をこぼしたり、家族に対してまで会社や上司の批判をしたり、ローンの支払いやリストラという不安と恐怖に慄いて仕事中毒になってしまったり、あるいは、むしゃくしゃして自暴自棄になり、やけ食いしたり、酒やドラッグで気を紛らわしたり、リストカットしてみたり、多くの異性と寝ることで空しさを埋め合わせようとしたり、時には、目に付くものを手当たりしだい壊して回ったり・・・

でも、そうしたことは所詮、一時的な捌け口であること、抱えている悩みに対する本質的な解決法ではないことは自分でも分かっているのです。
ただ単に、やり場のない胸苦しさからの解放を求めているだけで、本当は誰にも八つ当たりしたくはないし、自分自身だって見捨てたくもないのに、苦しみの相対量が喜びよりも多いと感じてしまったせいで、つい投げやりになってしまう。良いも悪いも思いの力は強大なのです。

自分が世界で一番辛い、可哀想だと思って悲観することで毎日をやり過ごす。それが自分にできる精一杯だと思い込んでしまう。
けれど、そうして自分を誤魔化していることくらい、本当は心の底では知っているのに嘆かずにいられない。悪習というものは、なんて恐ろしいのだろう。

みんな人には言えないけれど、深い悩みを抱えている。
そして、どんなに立派な人も偉い人も凄い人も、一度その深い陥険の中に落ち込んでしまったら、なかなかそこから抜け出すことは難しい。
巽の時ならば、「存在意義が分からない」とか「鬱だ、死のう」などと軽々しく口にして引き篭もったとしても、まだ自助努力できる余地は充分にあるし、適切なカウンセリングを受けたり、仲間達と励ましあったりしながら、なんだかんだと生き延びて行ける。

でも、途方もない心の痛みや存在の辛さなど、苦悩の淵に落ち込んだ状態になってしまうと、人は本気で死を望むことさえあります。
唯一それが、最良の解決法だと思い詰める日々が続き、いつしか自分で自分を夜の海へと続く断崖絶壁へと導いてしまう。見つめていると、漆黒の闇へと吸い込まれるような気がするでしょう。そうしたら苦しみから解放されるような気がするでしょう。
・・・でも、残念ながら、それは良い結果とはなりません。

自殺、特に一家心中なんてのは言語道断です。
こんなことは理性で考えようが感情的に思おうが、答えは一緒。
絶対、してはいけない。

そもそも自分を見捨てたことで得られる結果に、何一つとして良いことなどあるわけないのです。
間違いなく、そこに魂の安らぎや解放はないでしょうし、現世に残された人達にとっても最悪極まりない。
酷ければ、一生モノの傷痕になるかもしれない。

時が過ぎて、もし仮に残された者が自ら命を絶った者のことを許容できたとしても、それで心の虚無を埋め合わせることにはなりません。
たとえ“死”という選択肢しかなかったとさえ思える状況だったにしても、やはり心の闇が本質的に癒されることはないのです。

こうした危急存亡の危機では、相当優秀なカウンセラーや理解者にでも出会わない限り、根本的な意味での脱却は困難です。最終的には本人の馬力、生きる意志の有無が生死の境を分けるとはいえ、そこから自力で這い上がってこれる人は稀有。

“自殺できる勇気があるのならば、この世を生きることくらいなんでもない”と思い止まり、自分を労わりつつ大切に生きることの価値を知れば、いずれ万人の指導者にだってなれるでしょう。

こういうことに関して世間は、安易に、そして無責任に“発想の転換”とか“ポジティブ思考”とは言うけれど、「今私がいる現実は、そんなに生やさしいものじゃない」と言いたくもなる時もあるでしょう。それは真実です。
死の底から這い上がってきたような経歴を持つ者にしか書けない本ならともかく、学者風情が何を薄っぺらい戯言を、と思うことは間違いではないし、そんな単純に解決できるのであれば、多くの人が既に自分の幸せを手に入れているはずだ、と考えるのが一般的です。

しかし実際は、そのようにはなっていない。なぜでしょうか?

本に書いてあるような成功例は夢物語で、自分はそんな世界には住んでいないのだと、自分で自分を規定し、蔑む。
さらに、幸せを望んでいるのに思うような満足は得られていないと、わざわざ愚痴をこぼす。
生活水準の不平等に対する嘆き・自分の置かれている立場、その環境に対する皮相的なアピール(悲愴感)。

そうした自らを卑下するような考え方や行動によって自らを嵌め込み、または落とし込んでいること、それが苦悩からの脱出を余計に困難にしてしまっていることに、ほとんど気が付いていない。これこそが問題なのです。

「水は低きに流れ、人の心もまた易きに流れる」
・・・あるいは「人の心もまた低きに流れる」だったか、そんな言葉を聞いたことがあります。(→後で調べたら、正確には「水は低きに流れ、人は易きに流れる」のようです。)
「赤信号、みんなで渡れば恐くない」なんてのは嘘です。もしトラックが突進して来ていたら、何十人という死傷者が出るでしょう。
この意味では、世間は感情で動く怪物なのです。考えもなく黙って付いていけば、酷い巻き添えを食らうかもしれません。

よく考えること。そして、真偽を見抜くこと。
坎の時においては、それが私達に最良の選択をもたらす唯一の方法です。

結局のところ本当の問題は、国や政府や会社や目の仇にあるのではなく、一人ひとりの心に巣食っている弱さと恐れです。
だらだらと愚痴をこぼしたり、誰かを批判したり、自分を卑下したりすることは、心を腐らせ、恐れに力を与える行為だと気がつかなければなりません。

それなのに、ほとんどの人は自分のしていること、自分の考えていることの重大さに気がつかず、いつまでも飽きることなく、「私は恵まれていない」「ウチにはお金がないから」「仕事がキツイ」といった愚痴をこぼすことで、そのように自分と自分の人生を定義し続けています。
こんなことでは恵みが降りてくるはずもなく、幸せが訪れるはずもなく、仕事が楽しくなるはずもなく、お金に好かれるはずもない。
それは当然の帰結であり、疑問を差し挟む余地は微塵もありません。

また、このことは他人に対しても同様です。
誰かに対して、その生き方を規制するような押し付けはもちろん、「あの人は、〜〜だから」といった勝手な決め付けは、単にそうやって批判する人の視野を狭めるだけでなく、相手の立場や環境をも悪くさせてしまいます。
そしてその行いは、翻って自分にも跳ね返ってくるのが常ですので、誰かを貶したり悪く言ったりすることは「百害あって一利なし」に他なりません。

だから、もうそんな言葉を口にするのは止めましょう。
――いえ言葉に限らず、心で想うことも、そうした振る舞いをすることも止めましょう。

その代わりに希望に満ちた人生を送る自分の姿を思い浮かべ、それが新しい自分であると定義し直しましょう。
憎んでいた相手の幸せを願ってみましょう。相手が微笑みかけてくれている様子をイメージしてみましょう。
真に自分が変われば、自然と相手の対応も変わります。

どうか、「定義は偉大な力を持った魔法である」ということを忘れないで下さい。
自分自身で、どのように“私”を定めるか、それによって未来の“私”が形成されるのです。
幸運なことに、定義はDVD-RWのように何度も書き換えることができるのです。

繰り返しますが、自分の運命の環境設定をしているのは、他の誰でもない自分自身だということを、私達は思い出さなくてはいけません。
そのことは、たぶん生まれる直前までは覚えていたのです。しかし、この世に生まれ、今まで生きてくる間にすっかり忘れてしまった。
あるいは、タンスの奥の衣服のように、長い間、引っ張り出されることもなくしまわれたままになっています。

今再び、クリアな意識を取り戻し、それを保持する重要性を胸に刻み込まなければなりません。
真に幸せになる鍵は、明晰な思考と透明な心にあるのですから。

・・・・・・・・・・・・

さて、話を変えて坎の最後に、ここで水に関する観察をまとめた「水五則」を取り上げておきます。
坎の正象は水ですので、きっと理解の助けになると思います。

1.みずから活動して、他を動かしむるは、水なり。
2.常におのれの進路を求めてやまざるは、水なり。
3.障害にあって、激しくその勢力を百倍し得るは、水なり。
4.みずから潔うして他の汚濁を洗い、清濁あわせいるる量あるは、水なり。
5.洋々として大海をみたし、発しては霧となり、雨雪を変じて霰と化す。
  凍っては玲瓏たる鏡となり、しかも、その性を失わざるは、水なり。

実は、ここに挙げた「水五則」は、その発祥が不明です。
黒田如水=孝高がその作者という説もありますが、他方では彼は古来より伝えられているものの編者であるとも言われています。
そのため、「水五則」にも様々なヴァリエーションがあるようです。ここに挙げたものはオーソドックスなものです。

「水五則」とは少し違いますが、たとえば次のようなものもあります。
原文は失くしてしまいましたが、短く書くと「水は尊く、水は美しく、水は強く、水は深く、水は恐ろしく、水は清い」。
これは京都の鞍馬山にある貴船神社で見ることができました。きっと、こうした洞察は他所にもあるだろうと思います。

人体の半分以上、約7割が水分であることは、よく知られています。
いわば人は水である、と言っても、それほど間違いではないのかもしれません。
おそらく古来の人も自然とそれを感じ取っていたようで、それゆえに水に対する考察は、そのまま人間の在り方に対する教訓として伝えられてきたのでしょう。

坎全体を通してみてきたように、人は悩む生き物です。
しかし、それは弱さと恐れの渦中において、まさに打ち勝てる能力があるという証に他なりません。
つまり、“悩む・苦しむ・考える”という尊い能力は、生命が進歩するには欠かせない重要な資質であり、これを大いに活用してこそ、私達は本来の自分自身を見いだすことができるのです。

よく、「人生は辛く苦しいことが半分、楽しみや喜びが半分」と言われます。
嬉しいことばかりではないけれど、嫌なことばかりでもない。半々だから人間なんだ、と。

結局、楽しみばかりを求めては安逸を貪る性格になってしまうし、辛いことばかりでは人生が嫌になってしまう。
その辺りのバランスの良さが、古来から「人間に生まれることが一番の修養(学び)になる」と言われてきた所以でもあります。
人間というものは儚くも難しく、また微妙な存在ですが、人間として生まれた以上、誰しも何らかの修養が目指されているのだろうと思います。

さて、先天八卦の原理――この場合、正確には月体納甲原理ですが――坎は欠けてゆく月全般を象徴しています。
離ではエレベーターやエスカレーターが上がって行く状態に喩えましたが、坎はそれらが下がって行く状態に喩えられます。
陰は次第に強さを増し、光は徐々に廃れて世界は刻一刻と暗く重くなっていきますが、望みが消えてしまったわけではありません。
この時、光は内部へと収束しつつ、やがて立ち上がる時を待ちながら英気を養っているのです。

それと、占星術的観点では坎はドラゴンズテイル(サウスノード)もしくは海王星の象意に近いのではないかと思います。エニアグラムでは、Type5が対応するでしょう。



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