*山水蒙 / Youthful Folly


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4.山水蒙

山水蒙の蒙とは無知蒙昧の意味で、基本イメージは子供に対する教育・啓蒙です。対の概念で考えた場合、水雷屯が幼児(生徒)で山水蒙が親(先生)になりますが、あまり一面的に捉える必要もありません。要は“教える&学ぶ”という関係性全般です。ここでの「子供」とは字面通りの意味だけでなく、様々な事柄における初心者・未経験者(経験の浅い人)・昔習ったけど内容を忘れてしまった人なども象徴しています。そうした人に対する教育や指導、注意や警告、さらには社会一般のルールなどを学ばせることが、この山水蒙の意義です。

「三つ子の魂 百まで」の諺もあるように事の初めに与えられる訓戒は後々の人生に大きな影響を及ぼすため、その内容の良否が重要視されます。卦辞に「初筮は告ぐ」という文があり、初めの占断に天意が示されるという意味が一般的ですが、僕は“幼い頃の質の高い学習が才能の開花に通じる”という意味も含蓄しているのではないかと思っています。別に幼児教育や英才教育の推進者というわけではないですが、最初が肝心という趣旨は理解できます。また、これは小さい頃のしつけ、歯磨きなどの習慣を象徴しているとも考えられます。

なお、啓蒙とは言っても上下関係(親から子、先生から生徒、先輩から後輩、年長者から若者など)における直接的な教えばかりを示すものでもありません。実際には、親不在の状態での子ども自身による奮闘努力であるとか自己啓発、または定められた規則や法律・拠り所とする考え方・信仰などを一つの行動基準として掲げる場合もあります。また、社会性を育む一方で失いがちな純粋な気持ちを子供達から学ぶことも多いでしょう。よく言われるように、教えながら学ぶ、学びながら教えるという相補性も含んでいます。

卦の構成を見ると、上卦が艮(山)で下卦が坎(水)であり、内に悩みを抱え、外は行き止まりか曲がり角という状況です。坎の事象である水には智(仁義礼智信の智)の意味がありますが、これは蒙が開けることで初めて表面化する能力です。誰でも潜在的には知恵を秘めていますが、それが発現するには巨大な知の蓄積がなくてはなりません。基礎組みがしっかりできていない状態(分からない箇所がある状態)のまま先に進んでも更にわからなくなるだけ、というのと同じです。小学校の国語や算数といった基礎的な学力が身についていなければ、その後の中学・高校の学習内容が理解できるはずもありません。

誤解のないように書いておくと、かつての寺子屋で行われていた孔子・孟子・荘子などの書を音読・丸暗記させるという方法論は、この山水蒙ではなく次の水天需に当たります。山水蒙では理解しておくべき基礎学力、生活規則を習得するのが目的ですが、水天需では長期的な展望に立った成長プログラムを考えます。これは、学んでいる時には意味は分からずとも、いずれ大人になっていくのに従って人生哲学(生活の知恵)として理解していく類のものだからです。またそれは机上の学問に限らず、食育とか遊び要素のある体験セミナーなどへと拡張していきます。

なお、屯とその綜卦である蒙は月に譬えると新月の状態です。地球からは太陽と月が同じ方向にあるためにその姿を視認することはできませんし、どのみち太陽の光は月の裏側を照らすので地球側にある表面はまだ闇(無)の状態です。闇の中では手探りしながら進むか、何か寄る辺となるものを必要としますが、それが山水蒙としての原義に近いかもしれません。光が遮られた見通しの立たない状況にいるのは不安ですが、それでも時間の経過と共に希望の光も芽生えてくることでしょう。とにかく現状としては、まだハッキリと将来設計することはできないので、焦らずに今できること・すべきことに専念しながら、徐々に理解を育んで行動範囲を広げて行ければ良いのではないでしょうか。

裏卦は沢火革で、対称関係は地火明夷です。蒙は見通しの悪さや曖昧さを嫌いますが、革は逆にそうした混沌の中からより良いものを見出そうとしています。そして蒙と明夷は、ともに知恵や状況の明度の低さを示しています。蒙では先行き不透明感があり、明夷では闇に阻まれて明が姿を晦ましている状態です。どちらも現状打破を希求しており、いつか打ち破ってやるという意志があります。


◆初六

下卦坎の初めで無知蒙昧の底に当たる爻です。自分独自の信念とか意志が希薄で、個人的にどうしたいのかを決められない状態です。そのために何らかの判断基準を外部に求めやすい時です。どういう行動をすべきか、どう考えたらいいのか等、学校で教わることや世間的に正しいとされる規範にはめ込もうとする傾向があります。社内ルール、校則、一般的な価値観、慣習、専門家の見解、精神的な教え等に思考を丸投げしがちで、傍目には本人の意思が見えづらいでしょう。また、生徒や自身に厳格になるあまり本心とか感情を表に出したがりません。引っ込み思案だったり、大切なものを足蹴にされたような思いを抱きます。それでも状況としては臨機応変な対応を求められることもあり、単純なマニュアル処置では上手くいかないケースも多いでしょう。そうした経験をするにつれ、次第に現場判断で自覚的に行動する意義にも気がつくようになるはずです。というのも、規則や教育には公約数的な面があって何から何まで対処できるようには作られていないからです。仮に仔細なルールを規定してそれらを遵守しよう(させよう)としても、逆に精神的に追い込まれやすくなってストレスが溜まってしまうでしょう。どうしたって人には心理的な遊びや余裕(許容度)が必要です。

◇九二

初六の主な行動規範は人が学校から学ぶことや社会的なルールなどでしたが、この九二では範囲が絞られて家族や仲間、特に親子の関係に焦点化されます。世間的な価値観とか規律というのは、大勢の人をカバーしようと作られているために身近な問題には当てはまらないことも結構あるのです。もっとも、親しい間柄だけで通用するような取り決めは、それが現実に直結するだけに想像以上の負荷が掛かったりします。親と死別したり理由があって働けないために兄姉が働いて家計を担ったり、悲痛な事故や病気で我が子を失ったことから長年立ち直れずにいたり、過去の人間関係のトラウマに苦しんでいたり…と案外に酷な状況が見られました。日常的な事柄では、例えば親が仕事で忙しいために長女が幼稚園の子供の送り迎えをする、みたいな感じです。ただどんなレベルであれ共通するのは、親族とか行動を共にする人達と持ちつ持たれつの助け合いが展開されることです。「お互い様」の状況。困った時にも心を開いて素直に事情を話せば、どこからか助け舟が出ます。でもこれは甘えを良しとしない本音の付き合いなのでシビアです。各自が自立的に生きているからこそ成り立つ関係ですし、私情に立ち入るために一時的に領域侵犯したり、心の壁を崩さなくてはならなかったりします。

◆六三

六三は九二での関係の意味を履き違えてしまったような爻です。九二では親密な間柄での火急的問題を解決するために助け合いましたが、そのためには互いの私情に深入りする必要がありました。しかし、気心の知れた関係とはいえプライベートを晒し続けたり必要以上に踏み込まれることには心が耐えられず、やがて不満が顔をもたげてきます。この六三では、普段の生活を通して親しくなった相手を値踏みするところがあり、見込みがあると踏めば自分の側に引き込むために誘いをかけます。勢い自分の信じる価値(商品や所属する団体の信条など)を押し売りするような状況になりやすく、それが元で関係に亀裂が生じがちです。いくら付き合いが長かったり仕事上では助け合ってはいても、やはり互いに相容れないことがあるものです。しかも、一方的に押し付けられたりすれば激しく反発するのも当然です。山水蒙は教えや学びに関係する卦なので、押し売りする内容も宗教とか特殊な思想であることも少なくなく、おそらく勧誘としては最も嫌われるタイプでしょう。相手自身(数人であるケースが多い)は何か大きな目的に貢献している気持ちになっているし、価値を広めることに使命感を覚えているので余計に厄介です。議論しても平行線を辿って埒が明かないでしょう。

◆六四

素性を明かしてまで信じているモノを広めようとした六三でしたが、逆に反発に遭って散々に貶されてしまいました。自分の信念を押し付けたばかりに、時間を掛けて築き上げた良好な関係に自ら溝を作ってしまったのです。結果、相手からも意識的に距離を置かれ、挙句の果てに自分自身も卑屈に陥ってしまった…。こうした苦い経験のために六四は極度に消極的になり、他者や世間に対して閉じた態度を取るようになります。防衛心が高まり、容易に本心を明かさなくなるでしょう。状況的には下卦坎から上卦艮に移って静止に向かっているので、今は落ち込んだ精神をリカバリーするために改めて自分を啓発して再教育する時です。けれど六三の時みたく「自分の信じているものこそ真実で正しい(唯一価値がある)」とはもう思えなくなっています。信念体系が大きく揺らいでいるため、何を基準に生きていけばいいのか分からなくなっているのです。しかも皮肉なことに基準自体が相対的なものなので、特定の価値にすがればその反動はどこかで現われてきます。やがて何が絶対的に正しいかという単純思考そのものが問題の根だったことに気がつきますが、それまでは積極的に何かを学ぶ気にはなれないかもしれません。心を遊ばせながら、じっくりと自分の魂に向き合ってみましょう。

◆六五

六三・六四と積極から消極の両端を行き来して、押し付けたり押し退けたりすれば必ず反作用に戸惑うことを身をもって理解しました。それに六四で自分や他者を訓化することの意義を再考せざるを得なかったので、精神的には随分と落ち着きを取り戻しています。この六五の人物は、両極端を通過してきたことで教えたり学んだりする本当の意味に気がつき始めたのです。しかし、まだそれは気がついたという段階であって確固として身に付いているわけではありませんから、これからしばらくはリトレーニングに努める時期です。精神的にも肉体的にも、また普段の意識の持ち方や生活の仕方にしても色々と矯正すべき点が見つかり、急激に前進意欲が出てきます。もうクヨクヨしていられないと思うでしょう。やるべきことがハッキリすると心は一本筋が通ったように力を増します。それでも、改善すべき事柄に向き合う度に六三のような反作用を経験するかもしれませんが、今はもうそれで過度に凹んだり感情的になったりすることはないはずです。凝り固まった見方(先入観)やプライドがほぐされていくにつれて、反対する人々の意見にも理があることに気がついたり、色々な考え方をする人々によって多様性のある社会が形成されていることを楽しめる余裕も出てくるでしょう。

◇上九

六五の段階で、教育とは何か、導きそして導かれるとは何か、といった問いへの自分なりの答えを見出します。また、それが他の人とは異なる内容であったとしても今は気になりませんし、むしろ別の考え方自体を寛容に受け止められるでしょう。少なくとも気分を害して逆ギレするようなことはありません。九五の行く末として、上九は一種の達観あるいは諦観といった心理状態になっています。かつてあれほど執着していたモノ(特定の人物や価値観など)へのこだわりが消え、まるで潮が引いたかのような冷静さを示します。力を抜いた関わり方。それは周りの人が驚くほどの変わり様ですが、当の本人は納得するに足る理由を得ているのです。また、何かを誰かに教えたり伝えたりする際も、昔のような過剰さは影を潜めています。今は、自分の過去の経験を大局的に見た上で、それを今まさにかつての自分と同じような過程にある相手の利とすべく噛み砕きながら話そうと試みるはずです。それも「参考程度に」という趣旨であって、訓戒として教えを垂れたり、経験上こうすべき等と偉ぶる気はさらさらないでしょう。放任主義と揶揄されるかもしれませんが、経験の種類や内容は人それぞれであることを認識しており、各自で解決していく以外にないことを知っている人です。
 


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