*離為火 / The Clinging


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30.離為火

離は麗しさ(美しさ)、そして「つく」――付着、点灯などの意味です。磁石や電磁気力のような関係。火がつき熱や明るさを持つことで、活動力を得たり、物事がハッキリ見えてくる様子を表しています。また、火で例えるならば延焼したり飛び火するように、元の場所を離れて他へ付くというイメージもできます。ただし、燃えるためには酸素が必要なように、活動に当たっての何らかの燃料が必要です。有効とされる資格、科学技術、パソコンなどの電化製品、親や兄弟姉妹、友人知人のツテ、お金など。必ずしも自分の体力や精神力に依存するものではなく、使えるものは何でも使うという効率的な知性を発揮する傾向があります。結果重視とか成果主義に流れやすい性質とも言えます。

離卦は陰の卦ですから、根源的には坤に由来します。つまり、離の内には坤の受容性や柔順さが秘められいます。受容とは、相手や物事を肯定するということ。逆に、それらを否定して拒絶・排除する坎は剛としての乾の性質を受け継いでいます。しかしながら、離は陽中の陰で、坎は陰中の陽なので取り巻く状況的には陰陽が逆転しています。大切なのは、主体となる側の内面(内輪事情)が離では陰であり、坎では陽であること。どちらであれ、単純に一つの型としてネガポジ・吉凶・善悪などの二面性を決め付けないことが大切です。立場や視点の違いによって、そうした内容は変化するものだからです。

前回の坎で書いたように、坎をネガティブ、離をポジティブとみたり、性格的な暗さ(重さ)・明る(軽さ)さなどと対比して見ることはできます。しかし、それぞれに評価すべき点、状況において有用な働きがあることも理解しておくべきです。坎は適切に用いられれば研究心や思慮深さとして生きますし、悩み苦しみという修羅場を潜り抜けてきた人は相当のタフネスになっています。一方、楽観視して物事の明るい面(上辺)しか見てこなかった人ほど苦境に慣れておらず、問題に腰を据えて取り組むことがなかなかできません。「down-to-earth(地に足が着いた性格、地道さ)」を坤から学ぶ必要があります。反面、人や出来事の肯定的な(利用価値のある)側面に光を当てられるので、上手くメリットを享受することができます。

離は坎という精神性に対する物質性を司る卦なので(正確には比重の問題なのですが)、文明の利器が一つのシンボルです。松明がローソクになり、電球になり、蛍光灯になり…と時代によって革新されていったように、先端性の技術に関係しています。科学の恩恵に肖る。坎の根性論に対抗する科学的トレーニング法とか、曖昧さを排除した明確な論理(アナログに対するデジタル)。情に流されない利益追求型だったり、スピード重視(効率主義)になりやすいです。しかし、多機能であることで重くなるのを好まないので、小型化・軽量化は離にとっての必須事項になっているようです。

愛憎などの感情が渦巻く重苦しい雰囲気を嫌い、明るく華やかな時間を過ごしたいという心理。孤独を恐れる性分から遠く離れた人とも交流や接点を持とうとします。おしゃべり好きな人が多く、サークルやコミュニティーに積極的に参加する傾向があります。インターネットを単純な情報検索の手段として使うよりも、友人やまだ見ぬ人達との交流の場として活用することに意義を見出します。特に、時代の流れに自分を合わせることが得意、もしくは流行に乗り遅れないように神経を尖らせていることが多いでしょう。人気商品やブランド物、CMの扇動に弱いかもしれません。見た目は優美ですが、その実は儚さが影を落としています。

離は美を表現する卦でもありますから、美術・写真・音楽などの芸術、ファッションや美容にも関係してきます。もっともそれらは八卦のどれであっても繋がりはあるのですが、離の場合は視線を集めるようなハイセンスな華やかさ、顔やスタイルの良い人を象徴しています。ただ、これには坤という世間一般にウケの良いスタイルであることが根底にあるので、一般の基準から逸脱しすぎて孤立化するのは耐えられません。例えば、震の個性に走った奇抜さとか爆発的な表現力とは趣が違うわけです。八卦にはそれぞれ好むスタイルがあるので、それが服装であれ生活の仕方であれ、その人の気質や性格に合ったものを選ぶ傾向があります。

先に離の特性は「肯定面を見つけて、メリットを享受すること」と書きました。この世の全てのことには良い面もあれば悪い面もある。人間で言えば、誰しも長所と短所が混在しており、しかも両者を明確に分かつことはできません。それでも、その時々で価値を見出し、上手く扱うことで美酒を飲むことはできます。これは人や物事の良い面を評価し、それを伸ばすという方法論と似ています。短所を潰したり弱点を補ったりするのは骨が折れるから、とにかく長所や利点を有効に生かそうという視点です。

いつの時代でもほぼ誰しも、自分の得意なことを発見して思う存分に発揮できたらいいなと望みます。でも、スランプに陥ったり、精神的に落ち込んだ時に内面の苦悩と対峙する術を学んでおかなければ、せっかく咲きそうになっていた花を萎ませてしまうかもしれません。片方に焦点化すれば、もう片面が疎かになるという背反性。実のところ、離と坎は表裏一体となって人生の波を作り出しているので、これを理解して苦楽と共に生きていくことが大切だと思います。易は変化の書、変化は苦楽でもあります。僕が「With the I Ching」(易と共に)という言葉を使っているのは、そういう意味も含んでいます。


◇初九

坎と離は五行で言えば水(冷)と火(熱)で相克関係ながらも、表裏一体の波動や螺旋のようなものでもあるため、片方だけを突き詰めてもその全容は分かりません。余裕があれば、離の初九を読む時は坎の初六も、という風に両方を読んで考えてみて下さい。さて離の初九は、朝の薄明期=twilightです。まだ夢から目覚めたばかりで眠い目を擦っているような状態ですから、視界は良くないし、頭もさほど働いていません。しかしすでに状況は動き始めていますから、顔を洗って身支度をし、できるだけ早く意識を明晰にしておきましょう。そうしたら外で何が起きているか確認して下さい。薄暗い中では、誰がいるのか、何をしているのか、足元や周辺に何があるのか不明ですから、目が慣れるか明るくなるまでは慎重に行動しなくてはなりません。近くで騒々しいことが起きていても慌てずに状況の把握と対処に努めましょう。もし案外と楽しそうな雰囲気だとしても油断は禁物です。動爻後の変卦は旅初六。「旅先で落ち着きがない様子では、現地の人に軽んじられ、思わぬ災厄にも見舞われやすい」という内容です。どちらも物事の始めの段階での浮き足立った状態の危険性を戒めています。心が定まらないままで何か事を進めたり、無難にやり過ごそうとしても道理に合いません。自分で決意するか、あるいは旅初六の人の助言に後押しされて本腰を入れるようになるか、いずれにせよ気持ちを固めることが必要です。後者の場合、自身の体験を基に同じような境遇の人をサポートすることが多いのですが、一方で核心や要領を伝えることの大変さを痛感するでしょう。秘密や重要なことを明らかにするには、まだ何かと障害の多い時期であることにジレンマを感じる人もいそうです。

◆六二

離の特性として何事かに付いたからには柔順にその任を全うするのが正しく(貞)、かつ物事が通暁する(亨)条件だとされています。その意味では、六二は陰柔中正で離卦の中では最もその資格を備えていると言えます。ただ、道義としては正しくても、このことが本人にとって本意であるかどうかは、また別問題です。立場や職責上、あるいは身体的・状況的な都合上、そうする他ないということもあるからです。それまで仲間として一緒に過ごしてきたのに、ここに至って急に上下関係や領分が明確化されたり、関係の分断――離別が起きることもしばしば見られます。というのも、変卦の大有九二での「大任を担う人物」に象徴されるように、そうした責任を背負うためには個々の意識的な転換が求められるためです。この時を区切りとして、周囲の期待や状況の変化に沿った自覚的な転身(転進)が果たされます。言葉通りに重い職責を負う人、新天地へと旅立つ人、身内の再婚に伴い移転する人など様々です。親しかった人にさよならを告げなくてはならないかもしれませんが、この転換によって新たな展開が生まれてくることもまた事実です。これを可能性と捉えて挑戦に結びつけるか、定められた生き方としての枠にはまったと考えるかは、その人の自由ですが、どちらにせよ自分自身の課題(試練や責任)と真面目に向き合わなくてはなりません。なお、離卦は文明・文化を象徴するものでもあるため、六二では最新の科学や技術、知的な話題などを見聞するケースが多いのも特徴です。同様に美的な事柄に対しても、優れたものに接する機会に恵まれやすいでしょうから、造詣を深めるチャンスがあればできるだけ参加すると良いと思います。

◇九三

初九は日の出前の薄明、六二は昼間(中天の太陽)、そしてこの九三は日の入後の薄明です。いわゆる黄昏の時であり、夕闇から夜への変遷期です。昼の太陽として人生を謳歌してきた人の栄光と挫折、もしくは終焉の時がクローズアップされます。裏卦の坎六三が上下の坎(険難)に挟まれていたように、離九三も昼と夜の太陽の狭間にいます。古来、この境界線に当たる宵の時間帯は「逢魔時」と呼ばれ、鬼や化け物、妖怪といった魔に逢いやすい(魔=闇が勢力を持ち始める)頃だとされていました。人の場合、魔が差して悪事を働いてしまったり、疲労や不注意による過失、判断ミス、勘違い等が起きやすい時なのかもしれません。また、中国哲理の十二運で言うならば、建禄(臨官)・帝旺といった絶頂期から衰・病・老・死…へと斜陽していく落日の状態を物語っています。それが、ジワジワと失速していくことになるか、遅発的または絶頂のド真ん中で急な不運に見舞われて落魄の身となるか、それは状況によりけりですが、いずれにせよ引退は余儀なくされ、残りの人生をどう過ごすかを考えなくてはならなくなります。こうした体験には前段階としてのハングリー精神、人々を巻き込んだ旺盛な活動力、金銭的事情や社会的責務からくる従属的な労働などが伴います。噬[口盍]六三の影響で良き師と良い理念に恵まれて障害を打破できれば、自分の夢を叶える所まで行けるかもしれません。ともかく、そこで一種の極致を経験した後で、何かしらの世の儚さや無常を悟らせる事態が起きるのです。そして今までのことは追憶の中に消えていく。失望感が強ければ過去を振り返ることは辛いと思います。でも、今更浮かれる気分にもなれないでしょうし、いつまでも悲嘆に暮れていても仕方ありません。過去を修正したい気持ちに駆られても現実にはできるはずもなく、諦観して(自らの運命を受け入れて)今を素直に生きるよりないのです。

◇九四

暮れの薄明から夜の星々の瞬きへ、そして今また一巡して早朝を迎えようとしています。下卦の太陽が沈んで上卦の太陽が昇り始めるという、まさに世代交代の過渡期です。元々、三爻と四爻との間には溝がありますが、ここでは特に先輩と後輩、先生と生徒、上司と部下、親と子、主人と使用人(飼い主とペット)などの間でジェネレーションギャップが沸き起こる傾向があります。身の引き際や登用する相手の判断を誤ると、おぞましい爻辞に示されるような事が起きて、大変に惨めな思いをしてしまいます。この時においては、自分の意思や方針を正しく受け継ぐ人は出て来ないか、自ら指導するために赴けども妨害に遭って託すことはできません。変卦の賁六四では「白馬(質朴な馬)に乗った者が来て、初めは賊かと思ったが、実は婚姻(調停)の申し込みに来たのだと分かった」とあります。華美か質朴かで迷った末に、白に象徴される素朴さを選んだのが賁の六四。これは咎めのない行為でした。一方の離九四では、二つの離の間でビカビカと光(火)を浴び、下からの熱や煙でせき立てられて落ち着きをなくしています。まるで真夏の太陽で焼かれた砂浜のように居ても立ってもいられない状態です。この九四の人物は、艮としての誠実さや人間的な律儀さ(芯)を持っているのですが、いかんせんその思いに固執しすぎる嫌いがあり、頑固に推し進めようとして自ら危険に飛び込んでしまいやすいのです。大体において、そういう場合には事前に周囲の忠告や引き止めがあるものですが、ほとんど聞く耳を持たず、結果的に苦しんだ末に後悔します。反省だけで済む事ならば良いのですが、命に関わるような重大な案件になると厄介です。本当に心配して諌めてくれる人がいたら、立ち止まって改める余地がないか考え直してみましょう。危険ラインに踏み込まず退くという決断も、また勇気の一つだと思います。

◆六五

二巡目の天頂〜転調〜を目指す太陽。一巡目の六二は正位で定めし運命がありましたが、こちらは陰(柔弱)の身で首座に就いたばかり。九四に焚き付けられて煮えたぎる業の中に入ってしまい、大事なものを喪いそうになっている人もいるかもしれません。応爻とは陰同士で、両者の間には陰影(裏事情や心的交流など)が横たわっています。六二同様、先見性(科学)や権威とも縁のある時です。離卦の外面は陽で明るい反面、内面には翳りのあることが多く、ここではそのシャドーの核心と対峙することになります。それは経済的問題や責任などの現実的な課題の場合もあれば、うつ病やトラウマなどの精神的な問題の本丸に挑むことであったりします。原文には涙という意味の言葉が出てきますが、まさにヒューマンドラマ(お涙頂戴)的な展開となるケースも度々です。家族・親子の縁や仲間内での親愛の情に絡む問題とその解決、セラピストやカウンセラーとのやりとりで次第に心を開く人、互いに本気で戦ったことで新鮮な理解を得て笑い合うなど。変卦の同人九五も「最初、同人六二と結びつこうとしたが障害に阻まれて憂慮する。だが後にこれに打ち克って会うことができ、笑い合う」とあり、卦の状況は異なれど意味は通じ合っています。また裏卦の坎九五の場合、現実の課題にせよ内的な問題にせよ、最も平易な場所・方法に突破口を見出すことが道理でした。希望があるからこそ努力できるし、可能性を高めることもできる。ただ、坎の場合は坎から坤で排水して空にするような感じでしたが、離では乾になって光で満たすような逆位相です。例えば愛で満たす、心に太陽を、大事な記憶を取り戻すといったことです。それが謎を明らかにし、未解決問題を解決するのです。

◇上九

離卦の天板部、つまり火の先端で理屈上は最も熱いところですが、内卦にも離(火)があって既に酸素を消費して燃えています。そして九四ではその炎に焚かれたり煙に燻られて苦しみ、六五では沁みる目で涙を流しました。当然、上九では熱や煙を嫌って危険を回避しようとするでしょうし、できる限り身近な者達をはじめとして救える人は救いたいと思うのが人情でしょう。六五では応爻や比爻での同情的な関係においてオープンマインドになりましたが、上九では知恵を巡らせて影響の及ぼせる範囲全てに手を打とうとします。誰も思いつかないような方法で事態を切り抜けようとすることもあるでしょう。ただし、元々離卦は二律背反の卦です。見方次第では、周りが苦しんでいるのを横目に利を貪るような狡賢さを示すこともあり得ます。よく「戦争で誰が一番得をするかと考えてみれば…」ということが言われますが、そういう状況に立つ可能性もあるわけです。変卦は離が雷となって豊上六。そこには繁栄の極致にあった者の落日の姿が描かれています。豊かさから孤独な旅への変遷。この栄枯盛衰の奔流は皮肉にも離上九の後ろを流れています。イメージ的には、ゼロサムゲームでの勝者や前もって取り分を得ておく立場の人間の末路に近いかもしれません。また裏卦の坎上六もそうですが、結果を判断するには長期展望や大局観が求められます。加えて当事者の人徳(良心)と、得た情報・直感をポジティブな方向に活用するための知恵、そして行動力。これを誤って悪知恵としてネガティブな方向性に使ってしまわないように心を引き締めて下さい。処置の仕方次第でその後の在り方が大きく左右されます。「人として大切なことは何か、何を守るべきか」を意識して行動することが肝心だと思います。


※卦意は2009-09-06にUP。爻意は2011-08-31に追加更新。

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§上経から下経へ

一般的には、先の坎為水そして離為火までを以って上経とされています。上経は天地自然(乾坤)の会合から始まり、坎離の陰陽配合によって、循環することで持続する生態系の下地が出来上がります。そしてこれに次ぐ下経では、男女(雌雄)の感応を起点として、より具体的な事象が形作られていく流れになっています。

ただ、僕自身は乾坤坎離を事象の根源に関わるものと捉えているため、他の60卦とは少し違う考えを持っています。簡単に言えば、60卦のみの場合では進化も退化もしない単なる円環を表し、それに上下振幅などの螺旋的変化を与えるのが乾坤坎離だと見ています。そして、この四純卦を除く60卦で構成する円環を二分割して(屯〜大壮、晋〜未済)、それぞれの位置(1〜30)における数秘術的な意味づけを与えています。これによって占星術の十二サインに割り当てることが可能になります。細かく言えば、屯〜大壮が陰サインで晋〜未済が陽サインとなり、それぞれの度数とリンクさせることができます。

この対称性は、実は全ての卦について言えます。屯と晋、蒙と明夷、需と家人、訟と[目癸]、師と蹇、比と解、小畜と損、履と益…という風にです。これらは互いに根本原理を同じくしながらも、その性質・方向性が異なるという面を持っています。占星術的に言うと180度(オポジション)の関係であり、東洋占術的には冲の関係です。なお、これは乾坤坎離を除いた60卦にて構成する概念です。つまり、大過の次に咸を置き、未済の次に屯を置いて考えます。

また、このシステムを後天八卦の艮-坤を軸とした天球位置に配置させると、その円環する易卦(序卦)全体の流れを読み取ることができるようになります。そして、これに加えて乾坤坎離を含めた先天八卦による64卦での天球対応(こちらは先天八卦の乾-坤を軸とする)もありますから、合計で3つの視点が一つの卦および爻にリンクしていることになります。ここでの易経解釈はそれらの意味と実経験などを総合させて書いています。もっとも、これは今の僕が見出している対応関係なので、あくまで「少なくとも3つ」ということです。気がついていないだけで他にもあるのかもしれません。

それはともかく、60卦のシステムで配当させる場合、通説の乾〜離までを上経、咸〜未済までを下経とする考え方とズレてくるので、僕は先述したように屯〜大壮と晋〜未済に分けて区切るようにしています。こうすると360度の円周を互いに6回ずつ入れ替わりながら繰り返す形になります。

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<爻意は後日、追加更新します。>


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