*山火賁 / Grace


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22.山火賁

賁とは飾る(decorate, dress up)、肉付けするの意。内面の離(卦象:火)をもって自分を装飾しようとする心理です。離の卦徳は明智で文明の利を象徴しますから、自分の意図するもののために利用できるものは何でも利用するという精神を有しています。ただし、美や知性を希求しても、度を越えると美が醜に変わって周りから嫌煙されたり、理解されずに孤立化する恐れがあるので気をつけたいところです。外卦艮は山としての安定したものを象徴するので、ここでは「社会的に人々の支持を得ているもの」と捉えておきます。

また、飾るという視点では、衣服や化粧、知識や技能、ステイタスを示すシンボル、過去の栄光など、自分をよく見せるために何らかの「アイテム」を使う傾向が見られます。例えば人脈を広げるためにインターネットの掲示板やコミュニティに参加したり、ランキングアップや収入を期待して広告バナーを自サイトやブログに張りまくったりする人もいます。しかし、やりすぎると殺風景だった見映えが一転して雑然としたものになってしまうため、傍目には「どうしちゃったの?」と思われることもあります。具体的には初九から九三にかけて(内卦離)は飾りが派手になってゆきますが、六四から上九にかけては艮としての自制心が働くために粉飾が減ってゆき、内実を求めるようになるという流れがあります。

実のところ賁が本当に求めているものは、自然体の自分を示すことです。必要以上に着飾ったり、自分を実物以上に見せようと画策することではありません。端的に言えば、“身だしなみ”とか“社会に生きる上での協調性”という程度の意識でいいのです。しかし、それは最終的な段階(上九)で血肉化する内容――あえてそうしようとするのではなく、人柄として自然に醸し出されるものなので、そこに至るまでは飾ることの意義や価値、そして有用性やアイロニー(皮肉・反語)についての理解を得ておくことも必要です。

例えば、皆さんも服やインテリアをデザインしたりコーディネートする際に、様々な組み合わせ方をしたり、配色やコントラスト、時代性、個性、着心地(使い勝手や実用性)、家具配置では採光や風通りなどを考慮すると思います。そうしたものを実感するのとしないのとでは感性の幅や多様性への理解度が全く違ってきます。そしてこの資質があることで、絶対的な価値観ではなく、対照的に素の状態を評価できるようになります。身近な例で言えば、メガネを外したり、化粧を落としてスッピンになった時の顔が周りにどう映るかは、普段とのギャップで決まるのと同じことです。あるいは、太めに見える人が上着を脱いだ時、単に着太りしていただけで実はスリムだったことに驚くかもしれません。

また、周囲には秘密にしていたことが、何かの拍子に白日の下に曝されてしまった場面を思い浮かべてみて下さい。おそらく、その時は何か言い訳をしたり取り繕ったりするでしょうが、それにしても限界はありますし、自身のプライドも傷つくでしょう。周りの目や評価を気にしたり、風潮や虚栄心に流されてしまった結果、恥ずかしい思いをしてしまった…。「こんなことなら初めから素の自分を出しておいた方が良かった」とさえ思うかもしれません。もっとも、隠し事がなくなれば心は解放されるので下手に自分を演出する理由もなくなります。かえって開き直れて気楽に生きられる人もいるでしょう。ただ、それでも最初の印象とのギャップは残ります。

視点・立場が逆になる綜卦は噬[口盍]。正論をかざして邪魔なものを粉砕する噬[口盍]に対し、見映えを良くするために粉飾する賁という対比。または、主義主張を押し通すか、一般性の中に自分の目的を見出すか。噬[口盍]は断固とした意志の持ち主を表すことが多く、基本的に他者の意見を素直には聞きません。言い出したら聞かない聞かん坊。おもちゃを買ってくれるまで場を離れようとしない子供、ストライキを起こして自分達の言い分を認めてもらおうとする人々のような感じです。

一方の賁は、現在の暮らしの中に既に自分の求めているものがあることに気がつき、特別な不満や抵抗感を抱くことなく利用していくスタイル。流行性の服を着たりブランド物を手にして満足です。これに対し噬[口盍]では、自分の心の衝動とマッチするものしか受け容れられません。認められない人やまがい物は厳正に排除し、好みのものがなければ作り出します。ただし、それも行き過ぎると、どこかで気持ちの整理を付けたり、状況や関係の打開に動かなくてはならなくなります。

裏卦もしくは錯卦は沢水困。困の字義通り困窮とか困難の意味です。地風升での植物(木)が囲いに入れられてしまった状態。または、泉(兌)の水が涸れたり欠乏している状態。具体的には、身体的・精神的な疲労度が極限になって泥酔したように寝込んでしまったり、生活に重大な問題が降りかかって困惑し、藁をもつかむような思いで助けを求めている状況だったりします。現象は人それぞれですが、いずれも心身および物事の健全さが失われています。一方の賁は物質の飽和した現代社会のようなもので、有り余るモノに食傷してしまい、いたずらに自分のエネルギーを浪費する人を象徴しています。これらはネガティブな様相を示しているように思えますが、そこでの経験を振り返ることで、自分にとっての限界性や必要性のバランスを知ることができます。困とて一概に悪い意味ばかりではないのです。これらは活動過多に対する休息欲求、物質と精神の比重、需要と供給の適度を図るためのバロメータの役割を果たしています。

シンメトリー関係は帰妹。内面の“女の心”で以って周りの人々や環境に関わろうとする姿勢。この女の心には表裏があります。時に健気さを、時にしたたかさを発揮しては外卦震の“男の心”を揺さぶります。一般に結婚の卦とされますが、恋愛期間や見合いを経て婚姻する漸とは異なります。爻辞に妾とか副妻と出てくるように、できちゃった婚とか政略結婚、また玉の輿的な劇的さ・電撃性(外卦震)があるのが帰妹です。一般性に対する特殊性を表す卦とも言えます。通常の段取りを経ずに、飛び級的に事を進めるというスタイルなので、特待生然とした生意気な態度をとる人もいれば、不慣れな環境で肩身の狭さから粛々と相手に従っていく人もいます。

賁と帰妹に共通したテーマは、自分の周りにある物事を上手に使いこなすこと。どんな境遇や人間関係の中でも臆することなく振舞える強さを培うことが課題です。イレギュラーな状況(帰妹)とか多種多様な価値観(賁)の中でも自分を見失わずに、かつ周囲と調和する生き方をしてゆくことが求められています。


◇初九

綜卦の噬[口盍]が正義感や事の是非良否に基づいて行動するのに対し、この賁は多様な価値観を受け入れた上で動きます。何が良くて何が悪いという判断にはこだわらず、色々な経験や出来事の中で自分にとっての意義を見つけられるかに力点が置かれています。ただ、この初九ではまだ賁に入ったばかりで、幾分考え方が極端なところがあります。体験の前提として、周りの人間や一般社会から隔絶した生活を送っていたり、遊び仲間はいても特殊な才能のために孤独感を感じていたり、ということが見られます。また、原文に「その足を飾る。車(移動手段)を使わずに歩く」という意味の言葉通り、事情から長距離を徒歩で行かなくてはならないこともあります。同様に、足(脚)を飾ることから靴などの履物も象徴します。それと足は基礎・土台・本拠地も意味するので、ここでは基礎学力・基礎体力の強化、才能の発掘と開花〜育成、故郷との関わりを大事にするという展開も見られました。初九は陽位陽爻の正位で六二とも比和、六四とも正応で、どの爻に該当する人とも互いに刺激し合いながら向上していける長所を持っています。もしも今、あなたが塞ぎ込んだ生活をしているのなら、この機会に散歩の習慣をつけるのも良さそうです。体力も付くし、歩くことで自然と気力と前向きさも出てきます。そうした中で、新しい人との出会いが生まれたり、自分の才能を活かせる場を見つけられるかもしれません。

◆六二

陽爻の初九では、才能があればそれを自発的に伸ばすような取り組みもできました。しかし、この六二は陰爻で自分から積極的に働きかける意欲に乏しく、上位の陽爻である九三に同行する格好で動くという傾向があります。上下関係や双方の間に流れる空気を上手く利用して取り入る強かさ。この時、状況的にお膳立てされているか、好意で保護的に扱われる場合も見られます。ただ、必ずしも始めから相手との関係が良好だとは限りません。身元や話(記憶)に曖昧な点があったり、仕事上で敵対していたり、個人的な感情から憎んでいたり、自らの目的を果たすために仲間をも騙しつつ動いていたり、ということがあるからです。当然、そのことが明るみに出れば信用を疑われて口論も起こるでしょうし、ちょっとした争いに発展することもあります。ただ不思議なことに、最終的には大体がハッピーエンドか後腐れのない形で収束しています。理由としては、事の真相が分かって誤解が解けた、ある出来事によって人生の先達の言うことに得心し、それまで抱いていた感情のシコリがなくなった、抗争相手の下克上(幹部の裏切り)によって形勢が逆転した、技量の違いを見せられて思い上がりを反省した、限界の訪れを感じて自然と相手の助けを受け入れられるようになった(合併吸収)などです。「虎の威を狩る狐」・「昨日の敵は今日の味方」といった印象を受けますが、見方によっては予定調和なのかもしれません。

◇九三

初九から九三に至る内卦の間は、文明(離)の産物を使って次第に文飾が色濃くなります。初九では噬[口盍]の余韻からか、物理的に着飾るよりも頭脳や才能を向上させ、地の利(土地勘)を生かし、性格上の気難しさや排他性を理解力に置き換える努力をします。次の六二では陰爻らしく、状況を鑑みて必要と思われる振る舞いをすれば有利な流れを呼び込めることを学びました。続く九三では、パフォーマンスや装飾の効果を利用して存在を主張します。この時、体に染み付いたやり方――行動や思考のパターン、習慣、演技力、信念などが事の鍵を握ります。裏を返せば、普段の言動に問題があれば疑惑を受けますし、寄り掛かっていた一般常識や個人的な思い込みが覆されたら、その衝撃的な事実に愕然とします。また、誰かや何かを気に掛けるあまり本心を押し殺していると、屈折して大事な時に嘘をつくなど空回りして後悔するはめになります。外見や周りの評価が気になる場合も、実際以上に良く見せようとか誤魔化そうとしたところで、その内に露見して恥をかくだけ。幸い、今は根本的な解決に乗り出すにはいい時期なので、言葉遣いや態度の改善、考え方の転換、普段の姿勢の矯正、生活習慣の見直し、悪癖の克服、長所短所の自己分析、内実の把握、掃除や整理整頓(断捨離の実践)、他者を認める褒める感謝する…等々、何か一つでも本格的に取り組むと良い結果が得られると思います。

◆六四

綜卦の噬[口盍]では邪魔者扱いの九四は賁の九三として世間に対する適応性を身につけ、自分が有能であることをアピールしています。一方、直に接触して中毒するなど心身共に消耗しやすかった噬[口盍]の六三は、賁の六四になって上位に立ちました。今は実働部隊としてではなく、才能ある初九を通じて影で糸を引く形で間接的に働きかけています。応爻の初九とは初めの内は保守(艮)と進取(離)の関係でギクシャクすることもありますが、同じ才能の持ち主として共通の話題に興じるようになると、六四は自分が経験から学んだ方法論やコツなどを初九に教え始めます。師弟関係として緊密な指導を行うこともあるでしょう。そしてこれを機にメキメキと力を付けた初九が快進撃を繰り広げる可能性もあります。しかしそうなると内卦のトップの立場にある九三は面目を潰されます。将来を嘱望される初九の才能に嫉妬し、自らの地位の安全を脅かす危険分子として警戒を怠りません。ただ、そんな九三も九四に対しては尊敬の眼差しを寄せているのですが、間接性が原因で打ち解け合えず誤解が先行しやすい状況です。ところで、初九と六四の関係性は事情により条件付きになる場合があります。そのために、何も知らない人達から信義を疑われ、荒れ模様の中を泳ぐことになるかもしれませんが、大事な約束ならば決して蔑ろにしてはいけません。忍耐強くあれば、やがて九三からの疑いも晴れて安心がもたらされます。

◆六五

陽位陰爻の不当位、かつ二爻とも陰同士で不応ですが、幸い外卦の中位にあって陰柔の徳を有しています。それに無位の上九とも比していることから、飾り立てることの虚しさへの理解もあります。六五は実際には資産家や名門の出の場合もあり、出自的には慣例に従う生き方を是として特に不満を持ったことのない人もいます。しかし、そこへ気風の異なるパイオニア的人物(上九)が現れて価値観を揺さぶると、始めは抵抗していても次第に影響を受ける人が出てきます。嘘偽りのない素の自分や自発的に人生を送ることの魅力に気がつくと、居ても立ってもいられずに思い切った自己変革を図ろうとします。都会の良家のお嬢様(離)が田舎農家の息子(艮)に嫁ぐような劇的な変容。当然、本懐を遂げるためには保守的な人達からの猛反発を覚悟しなくてはならず、自分自身でさえ大きな転換を決断するまでに感情の揺れや紆余曲折を経験することになるのは必至です。中には理想が空想に取って代わられ、現実と妄想の間を行き来してしまう人もいます。己の意思で道を切り開こうとする人間に付随する鮮烈な体験によって人生観が変わってしまうと、いずれ古い価値観に固執する人々との関係にケジメをつけなくてはならないと悟ります。一方、意識的にスイッチできる人ならば、“自分の意思”でこれまでの生活を続けることを改めて選択するのも良いし、夢を追う生き方と平行する道を選んでも構わないと思います。

◇上九

実際のところ何をもって「賁(飾る)」とするかは人それぞれ。知識、装飾品、財産、能力(技術や資格)、学歴、地位、権力、名誉、評判、知名度、人脈(コネ)、支援者、友人、恋人、家族、思想哲学、精神性、信念・・・色々です。場合によっては嘘や欺瞞、恐怖(威嚇)、腕力、武器で身を包んでいるかもしれません。さて、この上九の人物も決して聖人ではないので諸々の欲望もあれば、身勝手な振る舞いをして諌められたりもします。もちろん、社会や組織の一員として生きる以上は、その中での自分の役割を自覚して、注意深く調和的に振舞うことを人並み以上に心がける人です。でも、山地剥の気運を秘めている上九の人の心はデリケートなので、もしそういった生き方の中で「自由の精神が損なわれているな」とか「妥協的な雰囲気に流されているな」と感じたら、もうその環境には迎合していられなくなります。そして自分で決断するのが先か状況が変化するのが先か、いずれにせよ個人としての理想を追求する生き方に入ります。元々、無駄に美化することの虚しさを自覚しているので、飾らない素の自分というものを尊重しており、九五のような人達に自分の主張を話して聞かせることもあります。特に、見聞きしたことや体験したことに対して「どう感じたか、そこから何を考えるか」を、いつも問いかけては自分なりの答えを探すということを大切にしているように思います。


※卦意は2009-08-31にUP。爻意は2011-5-31に追加更新。


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