【間奏曲】
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                              魔法の道
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 ブライアン・ベーツの『魔法の道――あるアングロサクソンの魔術師の物語』という小説はなかなかの出来栄えである。話の筋はアングロサクソンの“異教徒”たちの改宗と再教育のために派遣された(と本人は思っている)若きキリスト教宣教師ワット・ブラントを中心に展開される。
異教の地に乗り込んだブラントはのっけからウルフという魔術師に出会ってしまう。ウルフは彼を別の世界へと誘い入れ、異教徒に改宗を迫る教化師だった彼の心と理解力を拡大させ始める。
 ある挿話の中で川に入って涼んでいる二人は、二羽のワタリガラスが飛ぶのを目撃する。ウルフはその飛び方から未来の出来事を予言してみせる。物語は若い宣教師の一人称で語られる。

 わたしはあざけりの気持ちで笑いとばした・・・・・・
 「いったいどうやって、たかが鳥が空を飛ぶだけで時間も場所も離れた出来事を知らせてくれるとおっしゃるんです?・・・・・・」
 わたしは水の中を歩いて岸に上がろうと向きを変えた。するとウルフがいきなりわたしの腕をつかむではないか。ぎくっとウルフの方を見ると、彼は刺すような鋭い目つきでわたしを見つめていた。水にぬれてきらめきを放つまつげの奥に清く澄みきった青い目が光っている。ウルフは確信に満ちた口調で切り出した。

 「時間的に遠く離れた出来事がそのために分離していると決めてかかるのは間違いだ。あらゆる事柄は精巧この上ないクモの巣のように互いにつながり合っている。どこであろうと糸の一本に生じた微小極まりない動きが、巣の中のあらゆる場所から識別されるのだ。さっきのワタリガラスたちの飛翔は、人間にかかわる事柄と目に見えない形でつながっている何本かの糸を震わせたのだ。」

 わたしの顔にはあからさまに疑いの念が浮かんでいたに違いない。・・・・・・ウルフはかすかにほほえむとわたしの腕を放し、水をはね散らしながら川岸に向かって進んでゆく。わたしは川の中に立ちつくしたまま彼の後ろ姿を見つめていた。岸に上がったウルフは草の上に寝そべりながら再び話し始めた。

 「まあ一羽のワタリガラスが空から舞い降りて兵士の目をつつくのを自分が目撃していると想像してみるがいい。するとおぬしはその鳥の飛翔が兵士の傷とじかに関係していると言うだろう。だがもし同じ鳥の飛翔を襲撃の六時間前に見たとしたら、定めしおぬしには兵士の傷と飛翔の間に何の関係も見えないに違いない。だがワタリガラスの正午の飛翔形態は昼夜の進行のごとき確かさで夕暮れのそれに縛りつけられている。それがしにはその形態の意味を読み取り、それによって未来に何が起こるかを知ることができるのだ」

 ウルフは起き直ると、わたしをひたと見すえたまま話を続けた。

 「おぬしは世界の断片を言葉で分類してばかりいるが、それ故に生の全体性と自分の語彙を混同してしまっている。おぬしの生の見方は、まるで手に持ったろうそく一本の明かりで室内を見て回るようなものだ。つまりおぬしは一度に見える狭い領域同士が分離していて一つのものとしてみることなどできないと思い込む誤りを犯すのだ。そのために自分の生の狭い領域が互いに分離して見えるものだから、それを結びつける手立てを発明せざるをえなくなる。これはふつうの人間が生について考える際に犯す誤りにほかならない。なぜならあらゆる存在が初めから結び付いているからだ。そしてこの世は千本のろうそくに照らされた一つの部屋なのだ」

 ・・・・・・・・・・・・

 ウルフは更に身を寄せてくると、まるで内証話でもするようにわたしの耳元でささやいた。

 「おぬしは自分の生命力を言葉で窒息させている。自分の語彙の中に答えを探し回って人生を送るような真似はよすがいい。そのような生き方では自分の体験をもっともらしく説明してくる言葉しか見つかるまい、ひとつおぬし自身が魔法に心を開くのを大目に見てやってはどうだ。さすればおぬしの理性の小箱も清められ、よみがえり、変化と進歩を遂げるに違いない。おぬしの語彙はおぬしの体験に仕えるべきなのであって、その逆ではないのだ」

 ウルフは優しい微笑を浮かべて話を続けた。

 「確かに言葉は強力な魔法でありうるが、われわれを奴隷にすることもできるのだ。われわれは魔法から吐き出されたほんのわずかな風をつかまえては、言葉として自分の肺にしまい込む。だがそれがまるで魔法をかいま見ることであったかのように思えたとしても、詳しく吟味してみれば、別にわれわれはそれによって現実を一切れでもつかんだわけではない。更にわれわれはほんの数握りの空気を風そのものと間違えたり、水差しの水をそれをくんできた川と間違えたりもする。われわれが事物に名前をつけるという己自身の力の奴隷となっている有り様はかくのごとしなのだ」

―――以上、「空間からの物質化」(ジョン・デビッドソン=著、梶野修平=訳、たま出版)P230〜233より引用